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戦没者遺骨収集のいま(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(2)遺族・間島リユさん(67)
産経新聞 2009.2.4 08:34
 ■「よう来てくれた」と父の声
 父の顔は写真でしかしらない。戦死公報には、「昭和20年7月17日時刻不明、フィリピン・レイテ島ビリヤバで戦死」とだけ書いてある。もちろん遺骨は帰ってこなかった。
 「父が亡くなったのはどんなところなんだろう」。
 ずっと、レイテのことが気になっていた。だが、観光資源が少ないレイテに行く日本人向けのツアーなどめったにない。
 あきらめていたところ、昨年、偶然つけていたNHKの番組で、アルピニストの野口健さん(35)が「(遺骨調査のために)10月にレイテに行く」と話しているのを耳にした。その遺骨調査を行うNGOに連絡を取り、開口一番、こう聞いた。「ビリヤバには行きますか?」と。
 灼熱(しゃくねつ)のジャングルの前に、鮮やかなコバルトブルーの海が広がっている。道なき道を数時間もかけて登っていくのは、60歳を過ぎた身には、さすがにきつい。熱さと疲労でくたくたになり、とうとう途中で歩けなくなった。
 そのときである。父の声が聞こえた気がした。
 「よう来たな。よう、ここまで来てくれた」。持参した父の写真を飾り、線香を上げると、涙が止まらなくなった。
 レイテ島では約8万人の日本兵が亡くなっている。敗走に敗走を続け、最後は食糧がなくなり餓死した兵も多いという。
 父が戦死した正確な場所は分からない。遺骨を見つけても本人の特定は不可能だ。
 それでも、「来てよかった」と思う。父は60年あまりも待っていたのである。「ずっと、父のことが頭から離れなかった。だって、私が思わなきゃ、誰が父のことを思うのですか」。
 あの戦争ははるか遠くになり、遺族も高齢化していく。遺骨収集に対する遺族の思いもさまざまだ。
 収容所で病死し、墓地に埋葬されているケースが多いロシアでは、戦友が埋めた場所を覚えており、DNA鑑定の結果、本人の遺骨と特定され、娘さんと“60年ぶりの再会”を果たした例もある。その一方で、世代が離れてしまった遺族から、「いまさら…」と遺骨や遺品の引き取りを拒否されることもなくはない。
 今回のレイテの調査でも、遺骨の近くで、名前が入った水筒などが見つかった。「遺族に手渡してあげれば、どんなに喜ぶだろうか」と思う。
 だが、それを誰がやるのか? 一部の人の情熱だけでは、とてもまかないきれない。(喜多由浩)
タグ:遺骨収集
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