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戦没者遺骨収集のいま(3) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(3)戦友会・茨木治人さん(82)
産経新聞 2009.2.6 08:37
 ■高齢化…「せめて事実伝えたい」
 あどけない軍服姿の顔写真が並んでいる。20歳前後の若さでシベリアに抑留され、収容所で亡くなった、満州国軍軍官学校(士官学校)7期の日本人同期生の写真だ。
 抑留経験者でつくる東京ヤゴダ(木の実の名)会副会長の茨木治人さん(82)は当時19歳。「氷点下50度に冷え込む酷寒の中で鉄道工事をさせられた。栄養失調になって同期の約半数が死にました」。
 ロシア(旧ソ連)で遺骨収集が認められたのは、平成3(1991)年になってからだ。仲間の遺骨を探し、慰霊碑を建てるために何度、現地を訪れたことか。800人以上が埋葬されているチタ州「ブカチャーチャー収容所」の墓地を訪れると、目印にしていた「一本松」の枯れた株だけが残っていた。
 そっと、手で土をすくうと、遺骨がのぞく。「水が飲みたかったろうな」と声をかけながら、水筒の水を注いだ。
 それから、幾度となく遺骨収集が行われたが、亡くなった同期生83人のうち、1人の遺骨がどうしても見つからない。
 「もう難しいでしょうね。一番年下の私が82歳。みんな弱っちゃいましたよ」。ヤゴダ会のメンバーも最盛期の300人から70人に減った。
 「せめて、シベリア抑留のことを若い人に伝えていきたい。学校ではロクに教えてくれませんからね」。厳しい表情だった。
 水戸歩二会・ペリリュー島慰霊会の事務局長、影山幸雄(さちお)さん(64)が父親の遺志を継ぎ、パラオ・ペリリュー島での慰霊と遺骨・遺品の収集に取り組んでから約20年になる。
 約1万1000人が亡くなった同島では、これまでに約7600柱の遺骨が収集された。残るは約2500柱。「探せばいくらでも遺骨があるのは分かっているんですよ。ただ、最近は現地の政府が、なかなか許可を出してくれません」。
 20年前は慰霊や遺骨収集で島を訪れる人が年間約4000人にも上り、島は彼らが落とす金で潤った。今では、せいぜい200~300人。日本や韓国からレジャー客が押し寄せ、「リゾート化」を目指すようになってから、戦争を思いださせる行為はあまり歓迎されない。
 「遺骨を掘る行為が環境破壊と見なされる。ODA(政府開発援助)と引き換えなら…と持ちかけてくる役人もいます」。
 ペリリュー島からの生還者で今も健在なのは7人だけになった。会員も2世が目立つ。「いつまで遺骨収集を続けるべきか?」と自問自答する日もある。
 「ただね。日本政府には毅然(きぜん)とした態度を取ってほしいんですよ。ODAを遺骨収集の交換条件にされるようなことを許してはなりません」。(喜多由浩)
タグ:遺骨収集
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