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紅いカンボウチョウカン(6) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【仙谷由人研究】(5)
極秘訪中「頼まれてやった」
産経新聞 2010.12.8 00:33 更新
■原点と変節
 昨年9月、官房長官の仙谷由人の地元、徳島市のホテルで開かれた政権交代の祝勝会。徳島県立城南高校3年生の同級生で、仙谷のすぐ前の席に座っていた医師、桜井えつは胸が熱くなるのを覚えた。
 「命をかけて国を支えていく。本当に、命をかけて政治活動をしていきます」。
 仙谷がこう誓うと、会場からは「よし、命懸けで頑張れ」と熱気あふれる声援が飛んだ。仙谷と民主党への期待が沸騰していた。
 それから1年3カ月しかたっていないのに、今や期待は失望と諦観に変わり、菅内閣の支持率は坂道を転げ落ちる。仙谷自身も傲岸不遜な発言や失策を連発したとして、不名誉な問責決議を突きつけられた。
 どこで道を誤ったのか。
 「僕は、何よりも“自由と民主主義”を愛するという自負を持っている」。
 「人間の完全な自由・人権を闘いとるという性根があり、絶えず反権力の図式で生きてきた」。
 仙谷は著書で、こう自身の「原点」を記した。ところが、権力の中枢である官房長官の座に就くと百八十度変節してしまった。
 中国漁船衝突事件では、詭弁を弄して衝突場面を撮影した映像を国民の目から隠し続け、国民の知る権利をないがしろにした。
 防衛省による民間人の政権批判封じ通達をめぐっては「民間人であろうとも自衛隊施設の中では、表現の自由は制限される」と主張し、言論・表現の自由を軽視する論陣を張った。
 仙谷自身の過去の言動を裏切る政権の保身体質、隠蔽手法こそが国民の怒りを招いている。

■中国への対抗策?
 仙谷は11月14日に横浜市で開催された首相の菅直人と韓国大統領の李明博との首脳会談に異例の同席をするなど、韓国重視の姿勢を鮮明にしている。
 「中国に立ち向かうには韓国を戦略的パートナーにしなければならないと仙谷さんは考えている。日韓併合100年の首相談話もそうで、布石を打っている」。
 内閣官房参与の前田匡史は解説する。自民党総裁の谷垣禎一も8月に、仙谷からこんな電話を受けた。
 「これは中国への対抗策だ。成長する中国に対抗するには米国、韓国と連携しなければいけない。オレもいつまでも左翼じゃない」。
 首相談話発表や朝鮮半島由来の「朝鮮王室儀軌(ぎき)」などの韓国への引き渡しに協力を求める内容だった。
 仙谷と谷垣は東大の同期で、同じく弁護士だ。当初は仙谷の要請に理解を示した谷垣だったが、やがて仙谷や菅の不誠実な言動に態度を硬化させていく。
 結局、仙谷への問責決議もあり、年内に儀軌を引き渡すという菅の対韓「公約」は果たせなかった。今月中旬で調整されていた李の来日も見送られた。
 一方、立ち向かうはずの中国にも、漁船衝突事件では腰をこごめ続けた。
 民主党衆院議員、細野豪志は今年9月に訪中し、中国の国務委員、戴秉国と事件の打開策を協議したが、この「密使」は、仙谷の依頼で実現した疑いが濃くなった。
 「仙谷氏とは学生運動時代からの知り合いで(訪中仲介を)頼まれたからやるべきことをやった」。
 学生運動時代からの仙谷の友人で、中国要人にパイプを持つ民間コンサルタントの篠原令は6日夜、TBSの報道番組で証言した。
 「関知していない」。
 7日の記者会見で仙谷は全面否定したが、篠原は産経新聞の取材に「戴氏は私の古くからの友人。仙谷氏の立場では、『関知しない』と言わざるを得ないのだろう」と語った。
 10月18日の参院決算委員会で、自民党参院議員の丸山和也は仙谷の発言を暴露した。「(日本の中国への)属国化は、今に始まったことじゃないよ」。
 仙谷の外交戦略は空回りしている。

 ■問責の行方
 来年1月召集の通常国会では、野党側は問責決議を受けた仙谷や国土交通相の馬淵澄夫が辞任しない場合は、冒頭からの審議拒否も辞さない構えだ。
 「期待以上の活躍、仕事をしていただいている」。
 菅は6日の記者会見で仙谷を持ち上げ、改めて続投を強調した。だが仙谷が積み重ねた「自殺点」が足を引っ張り、通常国会の強行突破も成算は見えない。
 仙谷は7日の会見で、先の臨時国会が菅内閣が提唱する「熟議の国会」とならなかったことについて、人ごとのように語った。
 「やっぱり、民主主義も時間がかかるということじゃないか」。(敬称略)=おわり
     ◇
 この連載は阿比留瑠比、佐々木美恵、坂井広志、村上智博、尾崎良樹、内藤慎二が担当しました。
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紅いカンボウチョウカン(5) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

日本の政治家というのは、自分の地位を守る為に、変節することも厭わない人種のようだ。

【仙谷由人研究】(4)
近親憎悪?小沢氏を意識
産経新聞 2010.12.6 23:26 更新
■優越意識
 「昔、われわれが議員になる前に聞かされてきた話のような情景かな…。いかがなものか、という議論になってくる可能性はある」。
 1日の記者会見。官房長官の仙谷由人は、民主党元代表の小沢一郎サイドが昨年7月、小沢系を中心とする衆院選候補者89人に計4億4千万円の現金を配っていたことについて、こうやんわり批判した。
 11月6日には、神奈川県知事の松沢成文に「日本で一番の有名人」と持ち上げられ、ポロッとこぼした。
 「いやあ。もう、小沢なき後の悪い…」。
 仙谷はここで慌てて口をつぐんだ。とはいえ、「悪い政治家」と続けようとしたのは明らかだ。仙谷はこれまで、近く政治資金規正法違反で強制起訴される小沢を強く意識してきた。
 平成20年2月、仙谷は自民党元幹事長、加藤紘一や社民党衆院議員の辻元清美(現在は無所属)ら超党派国会議員グループの一員として韓国を訪問し、次期大統領の李明博と会談した。
 参加者が帰国後、懇親会を開いた席での話だ。当時、民主党代表だった小沢をどう思うか聞かれた仙谷は、こう言い放った。
 「知ってますか。彼が落っこちた(昭和43年の)司法試験で、私は弁護士になったんです」。
 鼻白む出席者をよそに、仙谷はさらに言い募った。
 「だから、私のほうがずっと上なんですよ」。
 仙谷は東大在学中に司法試験に合格したが、小沢は東大受験に2度失敗して慶大に進学した。司法試験にも1度落ち、2度目の挑戦直前に父、佐重喜(さえき)が急逝したため後継者となった。
 仙谷は小沢が胸に秘めた2つのトラウマを逆撫でした。話は永田町を駆けめぐったが、その後も仙谷からこの「自慢話」を聞いた議員は増え続けた。

■直言封印
 「日本人の悪い癖は面と向かってしゃべらないで、よそでしゃべったりする。文句あるならオレに面と向かって言えと。何であっちこっちで陰で言うんだ」。
 11月3日、インターネットサイト「ニコニコ動画」の公開中継で小沢はこう語った。仙谷をはじめ党内の「反小沢」系議員が念頭にあったのは間違いない。
 仙谷が、表舞台で小沢を直接攻撃したのは過去1回だけだ。それは19年11月、小沢が進めた自民党との大連立がつぶれた後の両院議員懇談会の場だった。
 懇談会は、小沢や当時の幹事長、鳩山由紀夫の入念な事前工作で、単なるセレモニーとなるはずだった。その「小沢の続投を全会一致で了承」という段取りをぶち壊したのが仙谷だ。
 「(党内の)内輪の熱気と、国民の感性は相当のギャップがある」。
 仙谷の異議に対し、小沢は代表席で目を閉じ無反応だったが、気まずい空気が漂った。仙谷はその後、小沢への直言は封印する。
 それから3年余後の12月2日。仙谷は記者会見で、今年の新語・流行語大賞のトップ10に「脱小沢」が選ばれたことへの感想を聞かれると、そっけなく「何の感慨もない」と述べた。
 そして記者団の反応を見渡し、にやりとした。

 ■本物の政治家
 民主党の参院選大敗直後の7月下旬。9月の党代表選への小沢出馬が取り沙汰され始めたころのことだ。
 「小沢が出るなら受けて立つ。党から小沢の影響力を排除するいい機会だ」。
 仙谷は周囲に強調した。特に小沢の「カネの問題」と独裁体質を問題視していたという。また、以前からよくこうも話していた。
 「私は民主党の最初からかかわってきた。後から来た奴に党を変なふうにされるのはかなわん。選挙に強いかどうかしらんが、甘やかすなということだ」。
 仙谷の小沢への敵愾心は隠せないが、それだけではない。法解釈へのこだわり、独裁体質、目的のために手段を選ばない政治手法など共通点も少なくない。
 特に平成5年に一度落選してからは「保守以上に保守的な手法」(四国選出の国会議員)で組織を固め、小沢流のどぶ板選挙も徹底した。地盤の官公労だけでなく民間建設業者や企業経営者団体も回り、「『民主党より仙谷党』と呼ばれる組織を作り上げた」(連合徳島会長の小松義明)。
 「仙谷さんってどういう人ですか。(工事受注を)頼んだらちゃんとやってくれた」。
 元社会党徳島県議の一人は仙谷の落選中、大手ゼネコンの徳島支店長からこう尋ねられたことがある。
 「仙谷は心の中では、小沢のことを『本物の政治家だ』とみているようだ」。
 元社会党衆院議員で弁護士の松原脩雄(しゅうお)は指摘する。どこか似ているゆえの近親憎悪なのか。(敬称略)
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紅いカンボウチョウカン(4) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【仙谷由人研究】(3)
「傲慢不遜か親分肌か」 仙谷官房長官
産経新聞 2010/12/05 23:14 更新
 ■あだ名は傲慢
 ♪しのぶれど 答弁にいでにけり わが本音 恫喝傲慢 人の問ふまで
 自民党元幹事長、伊吹文明は10月21日の自派の総会で「詠み人は仙谷朝臣弁多という人だ」とこんな歌を披露した。もちろん平兼盛の「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は~」のパロディーで、官房長官の仙谷由人を皮肉ったものだ。
 国会では、質問者に「耳をほじくって刮目して」聞くよう求め、「最も拙劣な質問だ」などと非難する。記者団の問いかけには「下種の勘繰り」と言い放つ。
 中国漁船衝突事件の映像流出では、学者や検察OBが新聞紙上で、流出を認めた海上保安官を守秘義務違反の罪に問えない可能性を指摘すると、「その人たちも『ちゃんとした論文に書け』と言ったらそんなこと書かない」と侮辱する…。
 仙谷ほど、その発言が物議を醸した官房長官はいない。いたずらに敵を増やすことに何のメリットもないはずなのに、どうして挑発的な言動を繰り返すのか。
 「仙谷はナイーブ(無邪気)でシャイ(恥ずかしがり屋)だ」。
 東大の学友で内閣官房参与の松本健一はこう語る。仙谷は周囲に「オレは天の邪鬼だ」とも話しており、それゆえに悪ぶってみせたがるとの見立てもある。
 一方、同じ徳島選出の元社会党衆院議員で、仙谷をよく知る井上普方は全く違う仙谷像を指摘した。
 「仙谷の中学、高校時代のあだ名は『傲慢』。人の裏をかくような、とにかく性悪な男だったなあ」。

 ■おごりたがり
 平成2~3年、社会党1年生議員の集まり「ニューウェーブの会」で仙谷と行動をともにした元衆院議員で弁護士の松原脩雄は、仙谷が同会の代表幹事になった経緯をこう回想する。
 「仙谷は『オレ様』ムードで、代表になりたいというオーラを醸し出していた。権力志向が強く、自分は他人よりも優れているという自負心も強かった」。
 仙谷について松原が印象深いのは、「記念撮影ではいつも真ん中に座ること」と「初対面の相手にもやたらとおごりたがること」。
 徳島県立城南高校の同級生の一人も「仙谷は、昔から首相になることへの色気があるようだ」とみる。
 ただ、こうした仙谷の言動に関しては、体験した側の立場や見方によって相反する受け止めがある。
 「酒席などでは、(料金を)すべてもってくれる親分肌。飾り気がなく、権力におもねる人間が嫌いな情の人でもある」。
 民主党衆院議員(徳島2区)の高井美穂はこう語る。仙谷は「鍋奉行」でもあり、野菜を入れる順番にこだわり、小皿への取り分けもやりたがるという。
 ピース缶爆弾事件で仙谷とともに弁護団に加わった弁護士の菊地幸夫も、「『社会勉強だ。連れていってやる』と銀座のバーに誘われた。面倒見がよく、親分肌だった」と振り返る。

 ■本当は気が小さい
 「目線を絶えず低く据えて、まずは虚心坦懐に見てみることが、仕事の上で一番大事だ」。
 仙谷は鳩山内閣発足2日後の昨年9月18日、行政刷新担当相として、約150人の内閣府職員にこう訓示した。仙谷が職員に配布した「CHANGEのための仙谷ウェイ(変革期のドクトリン)」と題する一枚紙にはこう記されていた。
 「間違いを認め、率直に謝ることから始めよう」。
 「上から目線をやめて国民目線で語ろう」。
 まるで、1年後の自分自身に対する皮肉か叱責のメッセージのようだ。
 官房長官となった仙谷氏は、女性の容姿を指す「柳腰」を「したたかで強い腰の入れ方だ」と言い張り、誤用を指摘されても謝罪どころか撤回もしない。参院での自身に対する問責決議可決にも反省は示さない。
 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)は、民主党内の調整がつかなかったにもかかわらず、「日本人の精神のありようが鎖国状態になっている」からだと国民に責任転嫁した。
 「以前は同級生同士が会うと『仙谷は郷土の誇りだ』と必ず話題になったが、最近は話題に出なくなった。みんな、内心では漁船衝突事件への対応などおかしいと思っているのだろう」。
 中学時代の同級生はこう残念がる。仙谷は今年6月9日、官房長官として内閣官房職員にあいさつした際にはこう語っていた。
 「(自分は)本当は気の小さな男だ。ただ、与えられた立場、役割を自覚して何とかやり遂げたい」。
 理想と現実のはざまで、仙谷は呻吟しているように見える。(敬称略)
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紅いカンボウチョウカン(3) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

日本を嫌いな奴が、政治家をやっている。
この議員を受からせている地域の選挙民は恥を知れ。

【仙谷由人研究】(2)
権力闘争に魅入られた弁護士 仙谷官房長官
産経新聞 2010/12/04 22:23 更新
 ■法へのこだわり
 官房長官の仙谷由人の言動を追うと弁護士であることへの自負がにじむ。ときに依頼人(首相の菅直人)の利益を守るためならば、論理のすり替え、詭弁、恫喝も厭わないのも弁護士の宿痾だといえよう。
 菅が副総理・国家戦略担当相当時に「沖縄独立論」を述べていたことが発覚した今年6月、仙谷は記者会見でこうはぐらかした。
 「若いときの職業柄だが、検証しようがない伝聞証拠は、刑事訴訟法で言えば証拠能力がない」。
 仙谷はその後、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件でも刑訴法の引用を乱発したが、そのはったりともいえる手法はすでに見透かされている。同じく弁護士資格を持つ自民党参院議員の森雅子は「仙谷さんは、法律知識が豊富な相手にはケンカを売らないんですよ」と冷笑する。
 仙谷が弁護士登録したのは昭和46年、25歳の時だった。最初に担当したのは日立製作所の在日韓国人就職差別訴訟。この裁判で、仙谷は見事原告を勝訴に導いた。
 当時、在日韓国・朝鮮人差別反対運動に携わり、裁判で補佐人を務めた元現代コリア研究所所長、佐藤勝巳はこう振り返る。
 「仙谷は司法修習を終えたばかりで純真な人間だった。4人いた弁護士の中で一番勉強熱心だったな」。
 佐藤は、仙谷から「学生運動の活動家上がり」との印象は受けることはなかったというが、「ただ、日本の過去の植民地支配に対する贖罪意識は非常に強かった。そこは旧社会党的だった」。
 法を操る“技術”への過信、そして贖罪意識こそが、政治家、仙谷の言動の根底にあるのではないか。

 ■戦後補償と韓国
 最初に手がけた事件の影響からか、仙谷の韓国への思い入れはことのほか強い。日韓併合100年にあたり過去の植民地支配を謝罪する首相談話も主導したのは仙谷だった。
 平成2年に社会党から衆院初当選後まもなく、衆院議員会館の自室で東大時代の同級生の訪問を受けた。フィリピンや韓国での慰安婦補償請求などを主導し、「戦後補償の仕掛け人」として有名になる弁護士の高木健一だった。
 全共闘運動で正面からの左翼活動に挫折した仙谷は、日本の戦後責任追及に意欲を燃やした。高木とはその後、ロシアのサハリン残留韓国人の帰還事業で連携して日本政府を追及、実際は旧ソ連の責任が大きいことには目をつぶった。「香港軍票と戦後補償」という共著も残した。
 「法律的に正当性があると言って、それだけでいいのか。(日韓関係の)改善に向けて政治的な方針をつくり、判断をしなければならない案件もある」。
 仙谷は官房長官就任後の今年7月、日本外国特派員協会で突如として韓国への新たな個人補償を検討する考えを表明した。
 日韓両国は昭和40年の日韓基本条約とそれに伴う協定で個人補償請求問題を「完全かつ最終的に」解決している。法律家である仙谷が知らぬはずはない。今年1月の衆院予算委で仙谷は「日韓基本条約反対のデモに参加した」ことを認め、著書では基本条約について「サハリン残留韓国人問題はこの対象外というのが法的にも素直な解釈だ」と記している。むしろ「誰よりも詳しい」との自負があるに違いない。
 にもかかわらず、新たな個人補償に踏み込んだのは「日韓基本条約は無効だ」との思いがあったからではないだろうか。結局、仙谷は8月の参院予算委員会で「日韓間の請求権問題については最終的に解決済みだ」と訂正を迫られたが、心からそう思っているようには見えない。

 ■小沢弁護にも意欲
 新左翼活動家によるピース缶爆弾事件、社民党元衆院議員の保坂展人が原告となった内申書裁判-。仙谷は弁護士としてこれらの裁判に関わるとともに総評系の労働運動とも深くコネクトしてきた。現在も自治労の組織内議員である。
 「仙谷さんはつねに権力と向き合い、闘い、勝利することを目指してきた」。
 徳島県立城南高校の後輩で仙谷の選対本部長を務める弁護士の木村清志は弁護士・仙谷像をこう語る。
 その仙谷が、政治家として目標とするのは元官房長官、故後藤田正晴だというが、後藤田の親族である自民党衆院議員、後藤田正純(徳島3区)はこう見る。
 「仙谷さんには謙虚さがない。権力批判をしてきた人は、権力の座に就くと権力に不真面目になる」。
 別の四国選出の国会議員は「仙谷さんは権力闘争が目的化しすぎて、何をやりたいのかいつの間にか分からなくなってきたのではないか」と指摘する。
 仙谷は数年前周囲にこう漏らしている。「人生の最後の10年間は弁護士として活動したい」。
 西松建設違法献金事件で民主党元代表の小沢一郎の秘書らが逮捕された昨年春。反小沢の急先鋒のはずの仙谷は木村に真顔で語りかけた。
 「弁護士として手がけたらなかなかやりがいがある案件じゃないか」。
 心は今も弁護士のままなのではないか。(敬称略)
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紅いカンボウチョウカン(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【仙谷由人研究】(1)下
「ピンク色の官房長官」 仙谷氏の“原点”は
産経新聞 2010/12/04 00:55 更新
 ■転向しちゃった
 菅政権を口八丁手八丁の政治手腕で支え、同時にそのアキレス腱ともなった官房長官の仙谷由人の「原点」はどこにあるのか。
 仙谷と東大のドイツ語の授業で机を並べた旧友であり、現在は内閣官房参与として外交ブレーンを務める松本健一は昭和50年代半ばのある夜、仙谷との会食中にこう打ち明けられた。
 「おれ、転向しちゃったよ」。
 どういう意味かと松本が尋ねると、仙谷は「われわれの時代は(主流の作家は)大江健三郎だっただろう。司馬遼太郎に転向しちゃった」と答えた。
 松本によると、仙谷は30代半ばのこのころから、大学時代に愛読していた反国家的色彩のある大江だけでなく、日本社会の発展を肯定する保守主義的な司馬も認めるようになった。
 仙谷は全共闘(全学共闘会議)時代、「フロント」と呼ばれるセクトに足を突っ込んでいた。
 当時、全共闘運動は「日本社会主義青年同盟(社青同)」「革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)」-などのセクトが主流。フロントは「弱小で軟弱だった」(松本)とされる。
 仙谷は、ベトナム反戦デモには加わったが角材は握らず、1年留年した43年、5年生で司法試験に合格した。フロントは44年の東大・安田講堂攻防戦では講堂立てこもりには参加できず、司法修習生だった仙谷は食料の手配や下着の差し入れ、逮捕された学生の法廷闘争などを手伝った。
 「全共闘の救援対策を担ったことは隠しも何もしない。若かった時代の考え方に、思い至らなかったこともあるが、誇りを持ち、その後の人生を生きてきた」。
 仙谷は11月22日の参院予算委員会で、こう胸を張った。自衛隊を「暴力装置」と呼んだ思想背景について問われた場面でのことだ。
 「人間の頭は、20代ででき上がっちゃっている。それ以上は発達しない」。
 松本は仙谷の柔軟性を指摘しつつもこう語った。

 ■豹変できない
 「資本主義と社会主義のどちらを選択するか。この問題は、ベルリンの壁の崩壊で一気に勝負がついた」。
 仙谷は7月の日本外国特派員協会での講演でこう振り返った。仙谷は壁崩壊の翌年、平成2年の衆院選で社会党から初当選する。講演ではこう続けた。
 「そのときに考えたのは、絶対主義から相対主義というか、『主義者』にはならないことだ」。
 「政治をやる以上は多数派形成をやる。『孤立を恐れて連帯を求める』というふうに変えないと政治家として意味がないだろう」。
 社会主義の敗北を認め、「主義」と決別したのであれば、なぜ社会主義を標榜する政党からの出馬なのか。昭和50年代、自民党衆院議員の秘書をしていた中学時代の同級生が「自民党福田派から出ないか」と誘ったところ、仙谷はこう断ったという。
 「いきなり百八十度は豹変できないよ」。
 仙谷は昨年夏の衆院選で民主党が政権を奪取した直後、それまで自分に長年仕えてきた政策秘書を他議員の秘書に転籍させた。その理由について、周囲にこう明言している。
 「彼は左翼だ。左翼の発想では政権運営、権力の維持はできない」。
 だが、左翼的発想の限界に気付いていたはずの仙谷氏の実際はどうか。韓国に対する新たな戦後個人補償発言や日韓併合100年の首相談話、領土問題での相手国への過剰な配慮と自衛隊や海上保安庁への冷淡さなどで、雑誌では「赤い官房長官」と揶揄され、政権運営は行き詰まっている。
 60年安保闘争を評論家の西部邁らとともに指導した元全学連幹部で、仙谷と親交のある東大名誉教授、坂野潤治はこう喝破した。
 「仙谷はピンク色の道を選んだ。大衆闘争をやってもその先がないことは分かっていた。それで西部らは右に行ってしまったが、仙谷は『男たるもの踏みとどまりたい』とピンク色を探したのだろう」。
 個人の思想・信条、生き方であればそれもいい。だが、国難の時代に、中途半端な「総括」しかできなかった「ピンク色の官房長官」が果たしてふさわしいのだろうか。(敬称略)
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紅いカンボウチョウカン(1) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

またも産経新聞の面白い連載記事を発見したので紹介する。

【仙谷由人研究】(1)上
窮地に立つ“陰の総理” 因果はめぐる
産経新聞 2010/12/04 00:36 更新
 政権発足後半年にもかかわらず黄昏を迎えている菅政権にあって、独り仁王立ちしてきた官房長官の仙谷由人が今、刀折れ矢尽きようとしているかのようだ。
 3日の記者会見で、官房長官の職責を解かれ、法相に専念する可能性もあると示唆した結果、与野党から仙谷と菅政権への批判と不満が噴出したのだ。
 「彼は弁護士、クロをシロにする名人だから。まあ、冗談の中に本音があることもあるけど、(彼は)冗談で言ったんだよ」。
 国民新党代表の亀井静香は記者会見で「法相専念」発言の鎮火に努めた。仙谷自身も慌てて「すべては人事権者の意思だと一般論を言っただけだ」と強調したが、真意はともかく綸言(りんげん)汗のごとしだ。
 いったん口に出た言葉は当人の手を離れ、政治的な意味を持ち始める。ただでさえ参院で問責決議を受け、政権のブレーキともなっている仙谷に、民主党内の視線も冷たくなる。
 「一度問責を可決された閣僚にどのように対処すべきか、深刻に考える必要があろうかと思う」。
 前首相の鳩山由紀夫は3日、記者団にこう語った。民主党三役経験者も「仙谷と(国土交通相の)馬淵澄夫は問責決議が可決されても辞めていない。(前法相の)柳田稔が辞めた意味はなかったね」と指摘した。
 首相の菅直人と仙谷の「脱小沢」路線で、不遇をかこつ議員からは、来年の通常国会に向け、党人事・内閣改造による体制一新を求める声も強まっている。
 問責決議を可決した野党側は、当然のことながら仙谷続投は認めない姿勢だ。
 「仙谷残れば審議なし」(自民党参院政審会長の山本一太)。
 「続投とか法相専念というのは、問責の意思を正しくとらえていない」(公明党代表の山口那津男)。
 野党の強硬姿勢には、衆院で否決された不信任決議案は「官房長官・仙谷」の資質を問うたものだが、参院で可決された問責決議は「国務大臣・仙谷」を認めないとの意思を示したという背景がある。官房長官であろうと法相であろうと仙谷が出てくれば審議には応じられないというわけだ。
 自民党からは仙谷が官房長官のままでは、来年1月の通常国会の召集を決める「議院運営委員会の理事会も開けない」(国対委員長の逢沢一郎)との強硬論も出ている。
 今国会では、仙谷自身の外交上の迷走や国会での失言、暴言が審議の主要テーマとなった揚げ句、問責決議の可決となり、政策論議を妨げた。仙谷は3日の記者会見でその点を問われるとこう言い放った。
 「あなたがそうお考えになるんだったら、甘んじて受けておきます、はい」。
 問責決議には法的効力はない。だが、菅も平成10年に当時、防衛庁長官だった自民党の額賀福志郎が問責された際には「即刻罷免すべきだ」と主張していた。
 「もうちょっと自らの政権を客観化して判断なさると、あれだけ失言をし、理想を示さず、経済状態がこうであれば『しようがないな』と思いませんか」。
 これは平成12年11月の衆院予算委員会で、仙谷が首相の森喜朗に退陣を迫った際のセリフだ。因果はめぐり、自らに戻ってくる。
     ◇
 3日閉会した臨時国会の主役は菅でも民主党元代表の小沢一郎でもなく、紛れもなく仙谷だった。かつて全共闘運動に身を投じ、社会党から民主党へと転籍した仙谷は現実主義者なのか、社会主義の夢を引きずる左翼政治家なのか。「陰の首相」と呼ばれて権勢の絶頂に立ちながら、問責決議の可決で進退窮まった仙谷の幻影と実像を探った。=敬称略
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首相は、何と答えるのかな [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

「国の予算で収集を」 戦没者遺骨3万体 比で新たに確認
NPO法人、きょう首相らに公開質問状
10月28日7時56分配信 産経新聞
 アルピニストの野口健さん(36)らがメンバーになり、フィリピンで戦没者の遺骨収集を行っているNPO法人「空援隊(くうえんたい)」(理事長・小西理(おさむ)元衆院議員)は同国内で新たに約3万体分の遺骨の所在を確認したことを明らかにし、28日、国の予算で収集を行うことを求める公開質問状を鳩山由紀夫首相らに提出する。ただ、収集には国の遺骨収集事業予算を大幅に上回る費用がかかるとみられ、鳩山政権の対応が注目される。(喜多由浩)
 約52万人が戦死したフィリピンで空援隊は昨秋以降、現地住民の情報ネットワークを活用した新方式を構築し、今秋までの約1年間で前年の約25倍にあたる約5千体の遺骨を日本に持ち帰っている。
 9月には、国の委託事業として、これまでほぼ“手つかず”だったミンダナオ、パラワンのほか、ルソン、ミンドロ、セブなどの主要島を改めて徹底調査した結果、約3万体の遺骨の所在が確認できたという。見つかった遺骨は「旧日本兵のもの」とする現地村長らの証言が公正証書になっている。
 ところが、同隊の試算ではすべての遺骨を日本に持ち帰るには、現地住民の人件費、遺骨の保管費、輸送費などで約3億円かかる。今年度、同隊には厚生労働省から遺骨調査・収集委託費として2450万円が支給されているが、すでに使い果たし、現在は同隊が“自腹”で活動を行っている状態だ。
 担当の厚労省外事室は「遺骨収集が重要な事業であるのは間違いないが、国の予算には限りがあり、その枠内でやっていただくしかない」と話し、今年度予算では、せいぜいあと2千体の収集が限度という。来年度予算の概算要求でも同省は今年度の倍額を盛り込んだものの、3億円には遠く及ばない。
 公開質問状は、「(約3万体分の遺骨は)予算さえあれば送還できる。このままでは国家による遺棄だ」として、政府の見解を求めている。同時に同隊顧問の浜田靖一前防衛相名で同内容の質問主意書を国会に提出する。
 同隊の小西理事長は「このままではせっかく見つけた遺骨が散逸してしまう。国のために命をささげた先人に対して、国は責任を果たしてほしい」と話している。
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野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか(4) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

アルピニスト・野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか 遺骨収集シンポ詳報(4)
産経新聞 2009/09/22 14:43
国が真剣に取り組まねば(堀江)
 堀江正夫 約40年間、遺骨収集を続けていますが、(空援隊の)倉田さんのお話を聞いて、「本当に生き残ったものとしてはありがたい」と心から敬意を表したい気持ちです。
 ニューギニアについても共通している問題だと思っています。初期のころは、戦友がまだ元気でした。記憶も確かでした。その記憶に基づいて埋葬した場所、病院の跡を集中的に遺骨収集することができて成果も上がったのです。
 もちろん、その時点で戦後30年近くたっていたから、お墓も作った所が浸食されて海になってしまっていたり、地形がすっかり変わって見つからないところもありました。60年以上たった現在ではなおさらでしょう。
 政府の派遣団は、限られた人員が限られた日数で行く。計画はしたが、実際には行けなかったところもたくさんあるのです。厚労省の人たちも一生懸命やってくれているが、何分、スタッフも調査日数も限られている。現在は努力に対する成果が、あまり上がっていないのが現実です。ニューギニアでもフィリピンの空援隊に準じた方法をとれれば、成果があがるのではないかと思います。
 そもそも、国は遺骨収集の問題をもっともっと真剣に考えなくてはなりません。(担当の)厚労省外事室は20数人しかしませんし、(厚労省内の)地位も低い。もっと、予算も人員も調査日数も増やしてもらわなければいけないのです。小手先の対応ではなく、もっともっと抜本的に増やしてもらわなければなりませんね。
 ニューギニアではまだ1度も遺骨収集をやっていない地区がたくさん残っています。新たな情報も出て来ています。政府が民間に依存するのもいいが、政府が積極的に相手国政府と話してそういう情報をもらうべきなのに、やっていない。外務省との連絡が悪いんです。今後は遺骨収集のために、厚労省が在外公館に人を出すべきじゃないでしょうか。
 戦友はまだ若干は残っていますが、もう90歳前後ですからね。それでも「ぜひ遺骨収集に行かせてください」というのが何人かいるのですよ。

内閣府に省庁横断組織を(赤木)
 赤木衛 笹さんが『諸君!』に書いたように、このままのペースでは800年たっても遺骨収集は終わりません。
 これをドラスティックに変えるには、まず、地域ボランティアを拡充しなければならない。「郷土の先輩をお迎えしよう」という人たちですね。京都のレイテとか、旭川のガダルカナルとか、地域の(部隊の)先輩をごっそり根こそぎ動員されているケースは多いんです。それを地域の後輩が迎えに行くのです。
 もう一つは内閣府に特別室をつくって各省横断で遺骨収集に取り組むことです。拉致問題も最初は警察の公安セクションがやっていましたが、現在は内閣府で担当するようになりました。防衛省、外務省、厚労省などが、霞が関の縄張り意識に囚われるのではなく、横断組織に変えなければダメです。ニューギニア、フィリピン、硫黄島、インドネシアなど主要な戦場には、現地に連絡室をおく。そういことをするべきだと思っています。
 また、私が学生の頃、政府の派遣団による遺骨収集は1カ月でした。人員も最低30人です。ところがいまは2週間です。トランジット2日、3日。そこへ「現地大使館表敬」などという無駄なことをやっている。日本人が日本人にあいさつしてどうするのですか。これでは実際に遺骨を探す時間が減るばかりですよ。
 日本という国は国家がやるべきことを、ボランティアが身銭を切ってやっているのが現実です。それを「あれはだめ」、「これはだめ」と言っているのが役所なのです。いまこそオールジャパンでこの問題を考えていかなければならないでしょう(拍手)

時間がない、5年が限度(野口)
 野口健 僕はね、正直いってそれを国がやるとは思えないのです。われわれが現地で情報収集しているのは80歳以上の方々です。現地での感触は「あと5年で限界」なんです。情報がなくなれば終わってしまうわけですよ。だから国が動くのを待ってはいられません。
 繰り返しになりますが、僕には「国は動かない」というヘンな自信がある(苦笑)。ただ、待っていたって埒があかないから、まずは自分たちでできるのは「アクションを起こすこと」です。それから、国は動かないなら「予算を出してくれ」と。
 日本の遺骨収集における予算は現在約3億円。アメリカは約55億円です。せめて「予算を出してまかせてくれよ」というのが、現場で日々戦っている思いなんです。
 日本兵にとって、戦地に行って死ぬハードルは低かったのに、帰ってくるハードルがなぜこれほど高いのか?
 遺留品もたくさんあって、どうみてもこれは日本人のご遺骨だろうと思っていても、これまでは、政府が選んだ鑑定人のOKがなければ日本に持ち帰ることができなかったんです。ジャングルの洞窟で米兵やゲリラが集団自決しているハズがないでしょう。それなのに、いろいろな理由をつけて止めてきたのが国だったのです。
 この問題に関して国に期待はしていません。けれども、諦めてもいません。予算については、厚労省だけを批判しても仕方のないのです。国民の全体の土台、意識が低ければ、ダメなんですよ。でも、世論を動かすことは出来るのではないかな。国民の中から、「税金を遺骨収集につかってくれ」という意見があれば予算がつくのではないかと思います。
 残り5年で、どこまでできるか。精いっぱいやっていきたいと思ってます。
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野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか(3) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

こういう熱い人々を見ると、先程別の記事で書いた、「シーシェパード」と称する、自称環境保護団体とかは、カスの集団に思えてくる。

アルピニスト・野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか 遺骨収集シンポ詳報(3)
産経新聞 2009/09/21 13:45
国のプライドのためにやるという意義付けがない(赤木)
―ここ数年、国の遺骨収集事業が停滞していた原因は何でしょう?
 赤木衛 厚生労働省が遺骨収集をやっている理由はなんでしょうか? なぜ防衛庁ではないのか? 旧帝国陸海軍が解体された後、復員省が出来た。それを管理しているのが援護行政を行っていた厚労省なのです。厚生省が遺骨収集をやっているのは、あくまで「遺族や戦友の便宜を図るため」にすぎない。本来は日本のためでしょう。ここが大きな問題です。遺骨収集の能力のないものがやるべきではない。志がそもそも間違っているのです。
 米国のJPAC(戦争時の行方不明者や遺骨を探す組織)は、日本の10倍くらいの予算をつけて今でも世界中の未帰還兵をさがしています。でも日本では「遺族の便宜を図る」ために遺骨収集が行われています。日本では「遺骨収集を国家のプライドのためにやるんだ」という意義付けがなされていません。「無責任ではないか」という怒りを感じています。

 笹幸恵 事業が進んでいない最大の理由の原因は、一般の人々の無関心です。私も数年前まで知らずにいたから人のことは言えませんが、メディアの責任も大きいでしょうね。(遺骨収集を担当する)厚労省の外事室のスタッフは20人くらい。それが行政機関のスタンスを表していると思います。もし何が何でも「国家の事業としてやらなければ」と思うなら、もっとできたはずでしょう。その間にどんどん国民の関心が薄れていく。
 さらに、小分けにして申し上げると、記憶が風化していく。戦争体験者の方々は80代後半になっている。堀江先生のような方は失礼ですが奇跡だと思っています。「ここで戦った」、「ここに野戦病院がある」、「ここに友人の遺体を埋めた」という情報が少なくなった今は収集ができません。
 もうひとつは現地の人とのコミュニケーションなんです。「畑仕事をしていたら(遺骨が)出てきた」と言うことがいまでもままある。ところが現地にネットワークづくりができていなかったらほったらかしにされてしまう。われわれが情報を吸い上げる努力をしなければならないのです。
 3つめは自然環境の壁です。日本国内では川があれば橋がある。ところが、日本軍の将兵たちが戦った場所は川に橋がないのがほぼ当たり前。ジャングルに一歩、入ってしまったら右も左も全く分からなくなる。一緒にいた人の姿が見えなくなったら、自分がどの方向か来たか分からないのです。スコールがあれば、川も決壊してしまう。あまりにも日本の環境と落差があるのです。
 あとは、お金です。現地の人々がお手伝いをしてくれる。われわれとしては労働の対価として支払う。現地では失業率が8割くらい。現金収入は魅力です。「何とか日本兵の遺骨が収集したいのだ」と訴えても、若い人たちは、対価がないと協力してくれません。

「必ず日本へ返す」という決意があればできる(野口)
 野口健 決意の問題があるでしょうね。「必ず日本へ帰す」という決意があれば、あらゆる手段をとるでしょう。昨年までは民間団体による遺骨収集が認められていなかったので、現場に入って調査した結果を持ち帰って厚労省へ行くしかありませんでした。ただね、厚労省の方に当事者意識を持てと言うのがそもそも無理ですよ。日本軍は厚生省が派遣したわけではない。そもそも60数年前の話ですし、厚労省には、どだい限界があるのです。
 フィリピンへ行き、灼熱地獄のジャングルを歩いて、洞穴に入ると、おびただしい数の遺骨が残されている。その現場を見ると、平坦だった知識が立体化します。そして現実を知ると「背負ってしまう」。そのとき初めて決意、気迫の問題になると思うのです。
 僕は最初、正直言って「これはなかなか進まないかな」と思っていました。ところがたった4年で、状況は大きく変わりました。これまで全世界で1年間で収集した総計の遺骨を遥かに上回る数をフィリピンだけで集めた。たった半年で4000体以上ですよ。
 厚労省も変わった。フィリピンに関しては、空援隊が驚異的な実績を上げたことで、彼らが心を開いたというよりも、「いいといわざるを得ない状況」をつくったのです。国会議員もほぼすべての党が一緒にやってくれています。やるなら徹底してやろうと思っています。

―その驚異的な実績を上げている方法とは?
 倉田 これまでは「日本側の情報」がベースでした。戦友や遺族、厚労省が、旧日本軍の作戦記録などをベースに遺骨収集を行う。でもその情報は60数年前の情報なのです。どんな国もそうですが、60数年間変わらなかったものがありますか? そんなものはどこの国に行ってもない。ましてや発展途上国といわれる国では、山や川の地形すら変わっている。昔のままの地図では行き着かないのです。
 現場へ行ってみれば、川がない。家がない。また、小学校の校庭ぐらいの広さをさして「このあたりです」という人がいる。そういうのは「情報」とは言わない。ただの「噂話」ですよ。
 われわれのやり方は「現地の人の情報」をもとにしています。その情報の集め方が大きく違う。フィリピンにおいて、われわれに情報提供してくれるのは現地のお年寄りやトレジャーハンター(宝探し)です。彼らは仕事がないと山へ入って宝探しをする。ハンターの存在を知って、「きっと遺骨を見ているはずだ」と思いました。さらにもう一つの情報源はゲリラです。フィリピンは山の中はほとんどがゲリラの支配地です。日本で言うゲリラとちょっと違い、どっちかというと山賊ですね。要するに、現金収入を得る術がない。そういう人がゲリラ化して縄張りをつくり、通行料をとって暮らしているわけです。
 だから実際に銃を向けられることもあるし、葉っぱ(麻薬)を吸っている人もいますから、あまり楽しいところでもない(苦笑)し、行きたいところではない。マラリア蚊も飛んでくる。キングコブラもいる。われわれの仕事は言わば、マラリア蚊とコブラとゲリラと良い関係になることなんですね(笑い)。
 現在は、フィリピン人スタッフ10人、コーディネーター150人が毎日、山に入って歩き回って情報収集をし、遺骨を持って帰っています。それを各地の集積所に集めている。「何でうち(空援隊)がやらなければいけないのか」と思いながらも、フィリピン各地に仮安置所を建設しました。
 厚労省からは、「(遺骨の)保管料がかからないので助かります」と言われましたが、本来、そんなことは、民間のNPOがすることでしょうかね?
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野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

アルピニスト・野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか 遺骨収集シンポ詳報(2)
2009.9.20 13:00
「遺骨収集を考えるシンポジウム」の主なやりとりは次の通り。

祖父ちゃんに聞いた遺骨の話(野口)
 野口健 僕の祖父ちゃんは元軍人でした。ビルマ(現ミャンマーの戦いに参謀として参加したが、部隊はほぼ全滅。そのとき戦死した部下のほとんど(の遺骨)がまだビルマに残っているんだ、と聞かされていたのです。祖父ちゃん宅へ泊まりにいくと、ふとんの中で耳元で「健、あのな、ビルマではな」と囁かれる(笑い)。それが耳に焼き付いています。僕がヒマラヤで死にかけたとき、こんなことを想いました。日本兵が亡くなったときも、最期は「母ちゃんに会いたいな」とか、「子供に会いたいな」と思ったのではないか、とね。

 堀江正夫 東部ニューギニア戦線の生き残りです。日本の2倍もある大きな島で、その東半分が、東部ニューギニア。満3年間も戦い続けた部隊です。この地区に投入されたのが、陸、海軍合わせて15万人。このうち内地の土を踏んだのが約1万人。途中で部隊が転用されたり、帰ってきたのが約1万人。3年間の間に、それ以外の13万人の尊い命がニューギニアの土になったのです。
 われわれにとって一番、心残りだったのは、「同志をそのままにして帰るわけにはいかない」ということでした。昭和19年4月に、連合軍が上陸して日本軍は孤立。その後から豪州軍の攻撃を受けました。そのとき、全部隊に期せずして「遥か故郷を思わざる」という歌が伝わってきたのです。こうして13万人が祖国を、故郷を思いながら、亡くなりました。
 戦後、東部ニューギニアの遺骨収集が本格的に始まったのは、昭和44年からです。私は2回目の48年から参加しました。生き残った戦友が40人、学生の諸君が10人、そのほか計70人で1か月半の間、遺骨収集をしました。
 ニューギニアは酸性土壌ですから、すでに土になった遺骨もある。せっかく見つけても大腿骨しかなかったというケースもありました。みんなで丁寧に掘り出し、頭蓋骨を丁寧に手の上に載せるとつぶれてしまうことも。水はけがいいところはまだ骨が残っています。標高4000メートルを超える高地では、骨がしっかりしていました。頭に毛が残っているものさえあったのです。
 こうして13万人のうち、これまでにお迎えできたのが、約5万人。まだまだたくさんの遺骨が残されているのです。私は94(歳)ですが、何とか命があるあいだに、1体でもたくさんのご英霊を日本に迎えたいと思っています。

日本人は何をやってきたのか?(笹)
 笹幸恵 小さい頃から戦争に関心を持ち、いつか戦地を訪れてみたいと思っていました。旅費と生活費を稼ぎなら、ようやく行けるようになったのが30歳のときです。現在は34歳で、両親も戦後生まれ。だからこそ、「あの戦争で何があったのかを知りたい」と思っていました。本を読んでもよく分からない。「飢えで死ぬ」とはどういうことなんだろう、と。
 ソロモン諸島ガダルカナル島を訪れ、戦友会の方と各地をまわりました。「かつてこの地で戦った祖父の世代を弔いたい」という思いでした。ところが行ってみると、慰霊碑の脇に、遺骨が散らばっている。本当にびっくりしました。
 パプアニューギニアのブーゲンビル島のゴヒ村では焼骨式が行われました。井げたに組んだ薪の上に頭蓋骨が乗っていました。歯だけは真っ白く残っていたのです。こんな現実を私は知らなかった。「ただ手を合わせればいい」というのは傲慢な考え方だと気付きました。戦後60数年経って今なお遺骨が出てくる現実。日本人は「いったい何をやっていたのだろう」と思いました。私が生まれるまでの30年、生まれてからの30年…。戦後の繁栄を享受している1人として、とても腹が立ちました。
 ただ、私のような一般人は遺骨収集は出来ません。(当時は)国の事業でしか認められなかったからです。「何とかして日本に戻せないか」と悶々としたことを思い出します。
 ガダルカナル島のふもとで、国の収集団が帰った後、庭みたいなジャングルで5体分の遺骨を見つけました。遺骨の重さはイスくらい、持って歩けるくらいの重さです。物としては軽くない。けれども人間の命があったと考えればあまりにも軽い。そのやるせなさ、戦争の不条理、残された人が「声を上げることもかなわずここに眠っていたのか」と思うといたたまれない気持ちになりました。

 赤木衛 JYMA日本青年遺骨収集団は、昭和42年、花園大学、駒沢大学など、仏教系の大学の有志が「戦没者を慰霊しよう」と集って出来た団体です。現在は、学生有志が毎年、国の収集団に40人~60人参加していろいろな場所へ遺骨収集に行っています。今どきの若者たちは、おかしな格好をしている子もいるが、心根は昔と変わりません。先輩からいろいろなことを教わり、一生懸命やっている学生が多いのです。
 私が最初に参加したのはサイパンでした。そのときジャングルの洞窟から赤いランドセルが出てきたのを見たのです。サイパンでは民間人も巻き込んで激しい戦闘がありました。洞穴にランドセルを背負って逃げてきた小学生のことを考えました。そばには、細いボールペンくらいの上腕骨、櫛(くし)と簪(かんざし)も見つかりました。ちょうど僕の母親世代でしょうね。そういう人たちが被害を被った戦争だと思いました。
 そのときの体験は強烈でした。まるで脳天を貫かれるような思い。死生観がひっくり返された気がします。
 硫黄島の洞穴では、まるで時間が止まったようでした。横須賀-霞ケ関という定期券が出てきたり、「いまひとがんばりしよう」と書いてあるノートもありました。
 いろいろなところを回りました。日本人の先輩たちは「われわれが太刀打ちできないようなすごい精神力で戦われたのだな」ということがよく分かりました。全長18キロメートルのも及ぶ地下壕を作ったり、ニューギニアでは1000メートル級の山の上までトラックを分解して担ぎ上げていたり…。この日本人の精神力には太刀打ちできません。完膚無きまでに打ちのめされた気持ちになりました。
 遺骨をジャングルの中で見つけ、マニラ麻の袋を担いで、山を上がり降りしました。当時は、1回、山には入ると50や100の遺骨が見つかりました。その重さが背中にギシギシと訴えてくるのです。「まだ友達がそこにいるんだ」とね。
 これまで、がんばってこられた先輩たちに代わって今度はわれわれが「前衛」を担っていけない時期だと思います。ここに来ているメンバーがまさにそういうメンバーでしょう。

米軍はすべて持ち帰った(倉田)
 倉田宇山 3日前に野口と一緒にフィリピンから1555体の遺骨と一緒に帰ってきました。その1555体はいったいどこへ行くんでしょうかね。いまは厚生労働省の安置室と呼ばれる倉庫に置かれています。来年5月の最終月曜日に千鳥ヶ淵の戦没者御苑の穴蔵に、もう一回焼いて、かさを減らして、缶詰にして入れられるんですよ。ここは靖国神社ですから遺骨はありません。これ、どこへ行くんですかね。
 遺骨収集に関わったのは2005年8月からです。それまでフィリピンに足を踏み入れた事もなかったのに、いまでは私のパスポートはフィリピンのスタンプがぽこぽこ押されている。これまでに32回、今年に入って7回です。
 われわれが探すまで、フィリピンで見つかるのは年間数十体だった。これで国家事業と言えますか。フィリピンで亡くなった方、そのひとり、ひとりに人生があった。私は、どのような人生であったかは知りません。でも、こうした現実があることを4年前に行くまで知らなかったのか。不明を恥じます。
 私は本来、笹さんと同業のジャーナリストです。最初は「遺骨が山のようにある」と聞いても信じませんでした。
 最初に行ったのはセブ島。フィリピン一のリゾート・アイランドです。そのセブ島の空港に着いて1時間半、車を降りて歩いて15分。一つの穴を掘っていた。スコップを入れるたびに出てくる。最初はなにか分からなかった。だって日本人の大半は「焼かれていない骨」を目にすることはないでしょう。
 よく分からなかったから聞きました。「これ人の骨ですか?」。「日本人の骨ですか?」。笑われました。「フィリピン人の多くはクリスチャンです。クリスチャンはどんなに貧しくても、人が死んだらお墓に入れるんです」。
 そして、「米軍は死んだ兵隊さんをみんな持って帰りましたよ」と。「あんたもメディアの人でしょ。日本ではこんなに大量の遺骨が出てきたら、ニュースにならないんですか」。私は答える言葉がなかったです。その怒りが私の遺骨収集の原点です。それからあとは日本人の骨であるという証言を撮影してまわり、厚生労働省にお願いしました。
 お役人はどう言ったか。「ああすごいですねえ。こんなことは信じられません」。その挙げ句に、彼らは「こんな遺骨の映像をいっぱい撮ってくるのはやめてくださいね」、「なぜですか」、「遺骨にも尊厳がありますから」と。
 私は怒りのあまり、「舐めとんのかお前ら、こら」と怒鳴りつけていました。その後、厚生労働省からは「出入り禁止」となりましたが…。
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野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか(1) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

又、良い連載記事があった。紹介する。

アルピニスト・野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか 遺骨収集シンポ詳報(1)
2009.9.19 13:00
 世界的なアルピニスト、野口健さん(36)は8000メートルを超すヒマラヤで、もう何日間も猛吹雪に閉じこめられていた。“命綱”の酸素は残りわずか…。野口さんは、ついに「死」を覚悟し、ひとりテントの中で遺書を書き始めた。4年前のことである。
 ヒマラヤには、登山中に亡くなったクライマーの遺体がゴロゴロしている。酷寒の地のため、腐敗もせず、そのままの姿で各地に放置されている。8000メートルの高地から遺体を降ろすのは大変な労力が必要だからだ。
 「オレも間もなくテントごと吹き飛ばされて、雪の中に埋もれてしまうだろう。でもせめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか。帰りたいなぁ」。望郷の念はつのるばかりだった。
 そのとき、野口さんの頭の中に浮かんだのは、先の大戦で、熱帯のジャングルやシベリアの酷寒の地で、愛しい妻子やお母さんを想いながら死んでいった日本兵のことだった。「彼ら(日本兵)も帰りたかったろうな。ひと目家族に会いたかったろう」と。
 約240万人の海外戦死者のうち、いまだ約半数は日本に帰っていない。洞穴や土の中に埋もれて、帰りを待ちわびている…。“山仲間”の橋本龍太郎元首相や元参謀だった祖父(ともに故人)から聞かされていた話が、自分の死を目前にしたとき、甦ってきたのである。
 幸いなことにヒマラヤから生還できた野口さんは、取り憑かれたように遺骨収集への取り組みを始めた。忙しいスケジュールを縫ってこれまでに4度、フィリピンへ渡り、遺骨調査・収集を行った。8月21日にも、1555体分の遺骨とともに帰国を果たしている。
 野口さんが参加しているNPO法人「空援隊(くうえんたい)」(本部・京都市)は独自の情報ネットワークをフィリピンに築き、この半年間、驚異的なペースで遺骨を見つけ日本に持ち帰っている。それまで、国(厚生労働省)の派遣団しか認められなかった遺骨収集を、民間団体にも可能にする道も開いた。十数年、停滞していた遺骨収集事業が野口さんらの参加によって、再び息を吹き返したのである。
 だが、戦後60数年経ち、関係者の高齢化はどんどん進む。「残された時間は少ない」(野口さん)。いまこそ、遺骨収集を「拉致問題」のような国民的な運動に広げたい。たくさんの人たち関心を持ってほしい…。こんな願いから、野口さんの発案で8月24日、東京・九段の靖国会館で「遺骨収集を考えるシンポジウム」(産経新聞社主催)が開かれた。
 パネリストは野口さんのほか▽東部ニューギニア戦友遺族会会長で元参院議員の堀江正夫さん(94)▽ジャーナリストの笹幸恵(ゆきえ)さん(34)▽NPO法人「JYMA日本青年遺骨収集団」理事長の赤木衛(まもる)さん(45)▽同「空援隊」理事・事務局長の倉田宇山(うさん)さん(53)の5人。
 会場には超満員の約300人が詰めかけた。熱帯の洞穴で、大量の遺骨を目の当たりにしたとき、まだ小学生の赤いランドセルが小さな骨とともに見つかったとき…パネリストが、その場に立ったときの想いを語ったときには会場から、すすり泣きが聞こえてきた。
 「いまも帰りを待ちわびている英霊がたくさんいる」、「国の仕事ではないか」、「オール・ジャパンで今こそ取り組むべきだ」-。意見の多くは会場から拍手を持って迎えられた。「われわれの想いは間違いなく伝わっている」と野口さん。途中で席を立つ人などいない。
 約2時間にわたって議論や提案に熱心に耳を傾けた会場からは、質問が相次いだ。「民主党政権になったら遺骨収集はどうなるのか?」、「(報道してこなかった)マスコミに責任はないのか?」…。「僕も遺骨収集に参加したい」と決意表明する青年の姿も。
 ただ「新しいムーブメント」はまだ始まったばかり。限られた時間との闘いの中で、さらなる行動が必要だ。シンポジウムは、次回、次々回の開催を約して幕を閉じた。
タグ:遺骨収集
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戦没者遺骨収集のいま(8) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

産経新聞の遺骨収集の連載記事は、8回で終了。
又、良い連載記事があったら、紹介したい。

ちなみに、この連載記事を増補したものが出版されている。
喜多由浩『野口健が聞いた英霊の声なき声』(産経新聞出版)。
小生は、今日購入してきた。

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(8)ジャーナリスト・笹幸恵さん(34)
産経新聞 2009.2.13 08:32
 ■世論から政治へのムーブメントを
 ガダルカナル、フィリピン、サイパン、硫黄島…。この4年間に訪れたのは15カ所。ときにはひとりで、ときには戦友会や遺族と一緒に、熱帯のジャングルに、サンゴ礁の島に入り、遺骨収集や慰霊巡拝の現場を見つめてきた。
 虫や毒ヘビもいれば、治安の悪い場所もある。もちろん、トイレなどはない。女性には過酷な場所だ。「そんなこと、おじいちゃんの世代の日本兵たちが味わった苦しみに比べたら、全然、大したことではありませんよ」。
 こうした問題をテーマに取材を続けている若い女性ジャーナリストは珍しい。祖父は、シベリア抑留の経験者だったが、幼いころに話を聞く機会はなかった。戦争について、特別に強烈な体験をしたわけでもない。
 「だから、『なぜそんな取材を?』と聞かれても困るんです。普通の女の子がファッションや化粧品に関心があるのと同じように、この問題に関心があったとしか言いようがない」と苦笑する。
 それでも、取材を続けているうちに、遺骨収集の問題点が明確に浮かび上がってきた。関係者は高齢化する、現地での情報はますます少なくなる、現地人脈のネットワークもない…。
 「はっきりしているのは、今のやり方ではダメだということ。一部の人の思いや情熱ではなく、『遺骨収集をやるんだ』という国家としての意志やスタンスを明確に示し、新しい枠組みを作っていくことが必要なのです。もう、小手先では対応できません」。
 その際に、イニシアチブを取るのは、官僚ではなく、政治の力だ。政治決断があれば、官僚は動かざるをえない。そして、政治を動かすカギを握っているのは「世論の動向」だとみている。
 「世論が動けば、政治は必ず動く。ムーブメントを起こさなければならない。だから、新聞、テレビの役割は大きいのです」。
 大学や高校で、若い学生・生徒に遺骨収集について話す機会も多い。みんな、思いのほか真剣に耳を傾けてくれる。「今度、遺骨収集の現場に行くときは、私も連れていってほしい」という女子学生もいた。
 「若い人が関心がないなんてウソ。ただ、知らないだけなんです。話をすれば、高校生も真摯(しんし)に受け止めてくれました。だから、学校で遺骨収集のことを教えればいい。修学旅行で硫黄島へ連れて行けばいいんですよ」。
 同世代の友人・知人もそうだ。男性よりも、むしろ女性が共感してくれる。「日本って、こんなことさえやっていなかったの。それはイカンよね。何とかしなくちゃね」って。
 戦後60年あまり。何もしなければ風化は避けられない。遺骨収集事業も終わってしまう。
 「20代、30代、40代が引き継いでいかねばならない。今こそ声を上げるべきなんですよ」。=おわり(喜多由浩)
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戦没者遺骨収集のいま(7) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(7)JYMA理事長・赤木衛さん(44)
産経新聞 2009.2.12 08:34
 ■遺骨は僕と同世代の若者だった
 「僕と同じくらいの年齢の若者が、酷寒のシベリアで重労働をさせられ、病気や飢餓のために亡くなった。そのことを後世にしっかりと伝えなければ」。
 「私は衝撃を受けた…後頭部を銃で撃たれたり、解剖のために頭部を切断されたであろう、ご遺骨。故郷に帰れなかった悲しみはどれほどだったろう」。
 NPO法人「JYMA(旧日本青年遺骨収集団)」は、昭和42年の発足以来、のべ約1500人の大学生らを、遺骨収集事業の政府派遣団に送り出してきた。派遣回数は約250回、持ち帰った遺骨は約15万柱に及ぶ。冒頭の言葉は、遺骨収集に参加した若者たちの感想文である。
 彼らは、ごく普通の現代の若者たちだ。最初は、遺骨収集のことはもちろん、戦争についてさえ詳しく知らなかった学生も少なくない。偶然インターネットで活動を知ったり、学生同士の口コミで、事務所に連絡してくる。最近は女子学生も多い。自分自身もかつては、そんな学生のひとりだった。
 「昔はね、『海外へ行けるから』という動機もありました(苦笑)。ここ数年、参加者は、ほぼ横ばいですね。今年度は約60人のうち8、9割が大学生です」。
 政府の派遣団は、厚生労働省職員、遺族、戦友などで構成される。若い彼らに期待されるのは、もっぱら「肉体労働」だ。熱帯のジャングル、洞穴に入り、汗まみれになって遺骨を掘り出す。今や肉親の死にさえ、立ち会うことが少なくなった若者たちにとって、「命」を考え、先人の思いや苦労を知る貴重な機会だ。
 ただ、現在の制度では、政府の派遣団に参加する以外に、若者たちが遺骨収集を行う手段はない。フィリピンでは民間でも収集ができる方法に道筋がつけられたが、他の国では以前と同じだ。
 政府の派遣団は近年、思うような成果を挙げられないでいる。戦後60年あまりが過ぎ、派遣団の主力となっていた遺族、戦友たちは高齢化してゆく。また、「現地での公式行事が多過ぎて実際に作業をする時間が少ない」など、官僚組織ゆえの制約や無駄を指摘する声も少なくない。
 「情報は今もないわけじゃないんです。肝心なのは、今後、限られた予算をどう有効に使い、誰が先人の慰霊を担っていくのか? ということですよ」。
 アイデアはある。防衛省・自衛隊の参加やアメリカのCILのような専門チームの創設。そして、NPO法人のような民間団体に幅広く門戸を開くことだ。
 「いつかは政府が『遺骨収集事業をやめる』という時期がくるかもしれない。でも、そこに、ご遺骨が残されているという『現実』と、『やりたい』という若者たちがいる限り、われわれは民間として続けていくつもりです」。(喜多由浩)
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戦没者遺骨収集のいま(6) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

自民党支持者の小生だが、こういうマトモな民主党議員も紹介しないのは、不公平というものだろう。
民主党も、「鳩山、菅、岡田、小沢」というトップは、多分、頭のネジが、左巻きだろう。信用ならない。
それより、政界を引退して、こういう若手に道を譲った方が、よっぽど日本の為になると思うが。

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(6)衆院議員・泉健太さん(34) (1/2ページ)
2009.2.12 08:32
 ■国民運動として再構築を
 ニューギニア、硫黄島…、20代のころ、フィリピンで朽ちた慰霊碑を目にしたのが動機で、青年団体の遺骨収集事業に参加してきた。29歳のとき、大学時代を過ごした京都の選挙区から衆院選に初当選。父親は北海道の地方議員だが、地盤を譲り受けた2世議員ではない。
 昨年3月には、慌ただしい国会日程をにらみながら、NPO法人のフィリピンでの遺骨調査に参加。「永田町」から、この問題に取り組んでいるひとりだ。
 「初当選したとき(平成15年)、当然、遺骨収集問題に取り組む議員連盟があると思って探したけれど、見当たらなかった。なぜなら、かつては議連などなくても、みんな当たり前のように熱心に活動していたからですよ」。
 残念ながら、いまの「政界の空気」はそうではない。
 昭和27年度から始まった政府の遺骨収集事業はピークの50年度には、約3万6000柱の遺骨を持ち帰った。ところが、歳月の経過とともに収集数が激減し、昨年度まで3年連続で、遺骨収集数は3ケタにとどまった。
 一部の関係者の中には、遺骨収集事業にはそろそろ幕を引き、慰霊碑の建立や、遺族による慰霊巡拝事業に重心を移すべきではないか、という声もある。
 「私は、国家の責務として遺骨収集事業は当然、続けるべきだと考えています。それが、この国を造っていくために『必要なこと』だと思うからです。ただ、大量収集時代はすでに終わっている。関係者の高齢化が進み、情報も人手も少なくなりました。こうした『現場の実態』に合わせて、今一度、活動を再考、そして再興する必要があるのです」。
 かつては、ともに戦った戦友や遺族の情報が頼りだった。国会議員や厚生労働省も、彼らの願いをくんで動いていたことは、間違いない。特に、議員にとって、地元や支援者の意向は重いからだ。
 「(先輩議員の)みなさんは『私たちはもう十分やってきたんだ』とおっしゃるでしょう。それは紛れもない事実。関係者の献身的な努力によって続いてきたのです」。ただし、今後は、関係者だけの運動ではなく、「国民全体の運動として再構築すべきだ」というのである。
 「戦争の傷跡はまだまだ癒えていない。遺骨収集を国民全体の問題として受け止め、次世代に引き継ぐ時期が来ているのです。そのためには、戦後世代を含めて、一般国民が広く収集事業に参加できるような運動体を考えねばなりません」。(喜多由浩)
【プロフィール】泉健太
 いずみ・けんた 民主党衆院議員。昭和49(1974)年、札幌市生まれ。立命館大学卒。議員秘書をへて、平成15年の総選挙で京都3区から初当選(当選2回)
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戦没者遺骨収集のいま(5) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

小生は、基本的にアメリカが好きなのだが、こういう点を見ても、「やはりアメリカって、凄いなあ」と素直に思う。
こういう点は、世界の最先端は、やはりアメリカだろうな。

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(5)専門家集団派遣、科学的に判定
産経新聞 2009.2.10 08:09
 ■「すべての兵士を故郷に帰す」米国
 アメリカには、軍の作戦行動中に戦死したり、行方不明になった兵士の捜索や遺体回収、身元確認、遺族への返還を専門的に行う4軍の統合組織(JPAC)がある。その実動部隊がCILだ。
 第二次世界大戦から、ベトナム戦争、イラク戦争まで、「すべての兵士を故郷へ帰す」を合言葉に、世界中にチームを派遣し、遺体(遺骨)を見つければ、CILの専門家が科学的に身元鑑定を行い、遺族へ引き渡す。
 その徹底ぶりは関係者の間でつとに有名だ。たった一人の兵士の遺骨を捜すために、硫黄島に大人数のチームを送りこんだり、ドーバー海峡が干潮になったときに海底の泥を全部吸い上げて、欧州戦線で亡くなった兵士の遺骨を捜索したこともある。
 そのCILで、研修を受けた40代の日本人がいた。
 彼は、太平洋・ウェーク島でCILが見つけた旧日本軍兵士とみられる遺骨の鑑定に加わり、「レベルの違いを思い知らされた」と打ち明ける。
 遺骨は、3体分が個別に埋葬されており、日本海軍の下士官用のバックルが一緒に見つかった。身元判定の材料となる歯の治療痕もあった。米軍には、第二次大戦以降のすべての行方不明兵士の歯科記録が残されており、DNA鑑定も行って、身元を特定する。CILのスタッフから、「当然、キミたち(日本)もそこまでやるんだろう」と言われたが、日本にはそんな力量も予算もない。結局、身元不明者として、千鳥ケ淵戦没者墓苑へ葬られるしかなかった。
 「CILは予算も人も投入して、『当たり前のこと』としてやっている。アメリカで戦死者はヒーローだが、日本ではいまだに『日陰の身』の扱い。この認識の違いはあまりにも大きい」。
 日本にも、CILのような専門家のチームがつくれないのだろうか? 残念ながら、現時点での答えはNOだ。
 日本の場合、遺骨収集事業は厚生労働省外事室が担当している。多数の実動部隊や装備を持ち、専門家も擁している防衛省・自衛隊は国内の硫黄島での一部の業務を除き、基本的に遺骨収集事業にはタッチしていない。拉致問題のように、「内閣府に省庁の枠組みを超えた組織をつくるべきだ」という声もあるが、実現の見通しは極めて低い。
 だが今後、海外派遣が常態化している自衛隊で多数の犠牲者が出た場合などには、どう対処するのだろう。アメリカのCILをみれば分かるように、国家のために命をかけた人の慰霊をおろそかにしている国など、世界を見渡してもどこにもない。国民や現役の士気にかかわるからだ。
 「戦没者の遺骨を野ざらしにしてはならない」。CILで研修をした彼はそう言ったが、日本との差は大きい。(喜多由浩)
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戦没者遺骨収集のいま(4) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(4)NPO・倉田宇山さん(52)
産経新聞 2009.2.6 08:15
 ■「日本人のために」やる
 「厚生労働省は遺骨収集を遺族のためにやっている、というスタンスだが、私は違う。『日本人のために』やっているんです」。激しい言葉だった。
 家業は神職である。3年前の平成18年、僧侶、元国会議員らと、フィリピンを中心に、遺骨収集(調査)を行うNPO法人「空援隊(くうえんたい)」(本部・京都市)を立ち上げ、情熱と的確な戦略、そして、時には強引ともいえる手法によって、数々の「旋風」と「波紋」を巻き起こしてきた。
 遺族や戦友の情報に頼っていた日本政府派遣の遺骨収集事業は、関係者の高齢化や情報の減少などで、近年は、はかばかしい成果が挙がっていない。特にフィリピンでは、鑑定人の不明瞭(めいりょう)な判定によって、「旧日本兵の遺骨ではない」とはねられる(日本に持ち帰れない)ケースが相次いでいた。
 業を煮やした彼は、昨年末、フィリピン国内に築いた独自のネットワークと人脈を生かして、民間でも、遺骨を持ち帰れる方法に道筋(従来は政府の派遣団のみ)をつけてしまった。慌てたのは厚労省である。「今後も国が主体となって行う」(外事室)と言ってみたところで、相手国(フィリピン)が空援隊の方法を承認しているのだから、考慮せざるをえない。
 新方式で行った2度の派遣で収集した遺骨は約800柱に上る。これは前年度に「全世界で1年間」に収集した数に匹敵する。「今後、もし厚労省が行かないなら、われわれだけで遺骨収集をやる」と言い、役所側と軋轢(あつれき)が起きようが、お構いなし。活動にかかる費用は自前で賄っているから、気兼ねもない。なぜそこまで…。
 「見てしまったんですよ。おびただしい数の遺骨が残されているのをね。(英霊に)呼ばれたんです。だから、仕方ありません」と苦笑する。
 フィリピン・レイテ戦でほぼ全滅した第16師団(京都)の練兵場跡地は、子供のころの遊び場だった。「因縁を感じますね。遺骨収集のことを、『いまさらそんなこと…』と批判する人がいるけど、一度、現場を見てきたらいい。日本人として、放置できるのか?と」。
 ここまで、突っ走ってきたのは時間がないからだ。戦後60年あまりが過ぎ、現地での情報収集は、「今後5年が限度」とみている。
 「本来は、厚労省の1セクションだけで対処できる問題ではない。国を挙げたプロジェクトとして取り組むべきなんです。現にアメリカはそうやっている。その“手足”には、いくらでもわれわれがなりますよ」。(喜多由浩)
タグ:遺骨収集
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戦没者遺骨収集のいま(3) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(3)戦友会・茨木治人さん(82)
産経新聞 2009.2.6 08:37
 ■高齢化…「せめて事実伝えたい」
 あどけない軍服姿の顔写真が並んでいる。20歳前後の若さでシベリアに抑留され、収容所で亡くなった、満州国軍軍官学校(士官学校)7期の日本人同期生の写真だ。
 抑留経験者でつくる東京ヤゴダ(木の実の名)会副会長の茨木治人さん(82)は当時19歳。「氷点下50度に冷え込む酷寒の中で鉄道工事をさせられた。栄養失調になって同期の約半数が死にました」。
 ロシア(旧ソ連)で遺骨収集が認められたのは、平成3(1991)年になってからだ。仲間の遺骨を探し、慰霊碑を建てるために何度、現地を訪れたことか。800人以上が埋葬されているチタ州「ブカチャーチャー収容所」の墓地を訪れると、目印にしていた「一本松」の枯れた株だけが残っていた。
 そっと、手で土をすくうと、遺骨がのぞく。「水が飲みたかったろうな」と声をかけながら、水筒の水を注いだ。
 それから、幾度となく遺骨収集が行われたが、亡くなった同期生83人のうち、1人の遺骨がどうしても見つからない。
 「もう難しいでしょうね。一番年下の私が82歳。みんな弱っちゃいましたよ」。ヤゴダ会のメンバーも最盛期の300人から70人に減った。
 「せめて、シベリア抑留のことを若い人に伝えていきたい。学校ではロクに教えてくれませんからね」。厳しい表情だった。
 水戸歩二会・ペリリュー島慰霊会の事務局長、影山幸雄(さちお)さん(64)が父親の遺志を継ぎ、パラオ・ペリリュー島での慰霊と遺骨・遺品の収集に取り組んでから約20年になる。
 約1万1000人が亡くなった同島では、これまでに約7600柱の遺骨が収集された。残るは約2500柱。「探せばいくらでも遺骨があるのは分かっているんですよ。ただ、最近は現地の政府が、なかなか許可を出してくれません」。
 20年前は慰霊や遺骨収集で島を訪れる人が年間約4000人にも上り、島は彼らが落とす金で潤った。今では、せいぜい200~300人。日本や韓国からレジャー客が押し寄せ、「リゾート化」を目指すようになってから、戦争を思いださせる行為はあまり歓迎されない。
 「遺骨を掘る行為が環境破壊と見なされる。ODA(政府開発援助)と引き換えなら…と持ちかけてくる役人もいます」。
 ペリリュー島からの生還者で今も健在なのは7人だけになった。会員も2世が目立つ。「いつまで遺骨収集を続けるべきか?」と自問自答する日もある。
 「ただね。日本政府には毅然(きぜん)とした態度を取ってほしいんですよ。ODAを遺骨収集の交換条件にされるようなことを許してはなりません」。(喜多由浩)
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戦没者遺骨収集のいま(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(2)遺族・間島リユさん(67)
産経新聞 2009.2.4 08:34
 ■「よう来てくれた」と父の声
 父の顔は写真でしかしらない。戦死公報には、「昭和20年7月17日時刻不明、フィリピン・レイテ島ビリヤバで戦死」とだけ書いてある。もちろん遺骨は帰ってこなかった。
 「父が亡くなったのはどんなところなんだろう」。
 ずっと、レイテのことが気になっていた。だが、観光資源が少ないレイテに行く日本人向けのツアーなどめったにない。
 あきらめていたところ、昨年、偶然つけていたNHKの番組で、アルピニストの野口健さん(35)が「(遺骨調査のために)10月にレイテに行く」と話しているのを耳にした。その遺骨調査を行うNGOに連絡を取り、開口一番、こう聞いた。「ビリヤバには行きますか?」と。
 灼熱(しゃくねつ)のジャングルの前に、鮮やかなコバルトブルーの海が広がっている。道なき道を数時間もかけて登っていくのは、60歳を過ぎた身には、さすがにきつい。熱さと疲労でくたくたになり、とうとう途中で歩けなくなった。
 そのときである。父の声が聞こえた気がした。
 「よう来たな。よう、ここまで来てくれた」。持参した父の写真を飾り、線香を上げると、涙が止まらなくなった。
 レイテ島では約8万人の日本兵が亡くなっている。敗走に敗走を続け、最後は食糧がなくなり餓死した兵も多いという。
 父が戦死した正確な場所は分からない。遺骨を見つけても本人の特定は不可能だ。
 それでも、「来てよかった」と思う。父は60年あまりも待っていたのである。「ずっと、父のことが頭から離れなかった。だって、私が思わなきゃ、誰が父のことを思うのですか」。
 あの戦争ははるか遠くになり、遺族も高齢化していく。遺骨収集に対する遺族の思いもさまざまだ。
 収容所で病死し、墓地に埋葬されているケースが多いロシアでは、戦友が埋めた場所を覚えており、DNA鑑定の結果、本人の遺骨と特定され、娘さんと“60年ぶりの再会”を果たした例もある。その一方で、世代が離れてしまった遺族から、「いまさら…」と遺骨や遺品の引き取りを拒否されることもなくはない。
 今回のレイテの調査でも、遺骨の近くで、名前が入った水筒などが見つかった。「遺族に手渡してあげれば、どんなに喜ぶだろうか」と思う。
 だが、それを誰がやるのか? 一部の人の情熱だけでは、とてもまかないきれない。(喜多由浩)
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戦没者遺骨収集のいま(1) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

遺骨収集に関して、産経新聞に、良い連載記事があったので、掲載する。
こういう問題に関しては、やはり、産経新聞が一番シャープで、朝×新聞が、一番反応が鈍い。

【あなたを忘れない 戦没者遺骨収集のいま】(1)アルピニスト・野口健さん
産経新聞 2009.2.3 08:25
 本土以外の戦没者は約240万人。その半数の遺骨が未帰還だ。遺骨収集の「いま」を追う。(喜多由浩)

 ■国家のプライドの問題だ
 「国のために命をなげうった人たちじゃないですか。国の責任で帰すのは当然のこと。国家としてのプライドの問題だ」。
 最近、いろんな機会をとらえて遺骨収集の問題を訴えている。NHKの番組で「話したい」というと、最初は渋っていたディレクターもカットをせずに放送してくれた。異例のことである。活動を知って、資金援助を申し出てくれたスポンサーもあった。「それは、やらなくちゃいけないよね」と。
 昨年、超多忙のスケジュールを縫ってフィリピンへ2度、渡った。熱帯のジャングルの洞穴で放置されたままの無数の遺骨を目の当たりにした。きれいな歯が残っていて、20歳前後と思われる遺骨も多い。「故郷に帰りたかっただろうな」と思うと胸が詰まった。
 海外での戦没者の5人に1人強(約52万人)がフィリピンで亡くなっている。そのうち、祖国に戻ることができた遺骨は、いまだ約13万人にすぎない。
 「激しい戦闘があったレイテ島では、約8万人が亡くなっている。補給もないまま、追い詰められて…。1万人以上が立てこもってひとりも帰らなかった山もある。その遺骨の多くが、いまだに帰っていないんです」。
 遺骨収集の問題は、「時間との闘い」でもある。戦後60年あまりが過ぎ、情報はどんどん少なくなる。「急がなきゃ」と思う。なのに、政府の遺骨収集事業ははかばかしい成果が挙がっているとはいえない。政府高官から「幕引き」を示唆する発言が飛び出したこともあった。
 「あの戦争に正面から向き合っていないと思う。こんなことでは今後、国のために命をかける人はいなくなる。政治の力で『絶対に連れて帰るんだ』という意思を示してもらいたい」。
 かつて、富士山やエベレストのゴミの問題に取り組んだときも最初は冷ややかだった。だがいろんな場所で深刻さを訴えて協力を呼びかけ、今では大きなムーブメントになった。
 「僕の役割はできるだけ多くの人に『伝える』こと。ほとんどの国民は遺骨収集のことをよく知らないのです。でも、反響は思ったよりすごい。確かな手応えを感じてますよ」
 昨年末、遺骨収集事業が民間にも開かれる道筋ができた。この3月、自分の手で遺骨を帰すべく、今一度、フィリピンへ向かう。
【プロフィール】野口健
 のぐち・けん 35歳 昭和48(1973)年、米ボストン生まれ。25歳のとき、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を達成。遺骨収集問題、環境問題に取り組む。
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野口健関連記事 [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

亡国マスコミの毎日新聞も、稀に良い記事書くのね。
結構、結構。

<野口健さん>海外戦没者の遺骨収集 比で活動開始(毎日新聞)
 アルピニストの野口健さん(35)がNPO法人の一員として、海外戦没者の遺骨収集を始めた。17日からは太平洋戦争の激戦地だったフィリピンのレイテ島で活動し、25日に帰国する。海外戦没者約240万人。約115万柱もの遺骨が今も海外に眠る。野口さんは「国家の犠牲になった人たちの遺骨を野ざらしにはできない」と訴える。
 7大陸最高峰への世界最年少登頂記録を樹立し、清掃登山などの環境活動で知られる野口さんが、遺骨収集を思い立ったのは4年前。ヒマラヤの8000メートル級の「シシャパンマ」山頂近くで遭難しかけた時だった。
 猛吹雪の中で酸素ボンベが残り少なくなり、テントの裏地に遺書をつづった。死の恐怖に直面した時、旧日本軍の参謀だった祖父から、たびたび聞かされていた海外の戦没者のことが頭に浮かんだ。祖父はビルマ(ミャンマー)で部下が次々に飢えやマラリアで倒れ、死んでいくのを目の当たりにしたという。
 「自分の意思とかかわりなく戦地へ送られ、犠牲になった人の無念さは計り知れない」。衛星電話で「無事に下山できたら遺骨収集を始める」とスタッフに伝えた。
 フィリピンで遺骨の調査・収集を続ける京都市のNPO法人「空援隊」(杉若恵亮理事長)に理事として加わった。昨年3月と10月、フィリピンのセブ島とレイテ島の洞窟(どうくつ)では、骨片が足の踏み場もないほど散乱していた。
 遺骨調査・収集は厚生労働省が主導し、戦友会や遺族会、NPOなどの民間団体が担ってきたが、持ち帰りには厚労省の許可が必要だ。約52万人が戦死したフィリピンでこれまでに収集できた遺骨は約13万柱に過ぎない。戦争当時を知る住民も減少し情報提供は年々少なくなり、厳格な手続きも壁となってきた。
 厚労省は昨年11月、フィリピンでの遺骨収集に限り、鑑定医のお墨付きがなくても、住民の証言だけで持ち帰れるよう手続きを緩和した。その結果、08年度の収集実績は既に800柱を超え、07年度の5倍に増えている。
 今回の調査・収集には野口さんら空援隊の6人が参加。「遺骨収集は国の事業」が厚労省の建前だが、空援隊は民間主導を訴え、フィリピン以外にも活動の場を広げたいと考えている。野口さんは「海外戦没者は国家の犠牲なのに帰国のハードルが高すぎる」と話している。【内橋寿明】[2009年3月21日13時57分]
 太平洋戦争の旧日本軍の遺骨収集に乗り出したアルピニストの野口健さん=東京都千代田区で2009年2月5日、梅田麻衣子撮影
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違いの分かる男 [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

アルピニスト、野口健は、今こんなことをしている。
小生も、彼の著書を2冊持っている。

小生が、野口健を知ったのは、「ネスカフェ・ゴールドブレンド」のCMだった。
確か、野口がエベレストで拾ってきた、凍ったニンジンを手に取り、「どうして、エベレストに、ニンジンを捨てると土に戻らないのか。それは、エベレストでは、温度が低すぎ、有機物を分解する微生物が活動できない。だから、捨てちゃいけないんだよ」と語るようなCMだった。

その時は、「胡散臭い、環境保護マニアか」と思っていたが、その認識が間違いであったことに気付いたのは、そのもう少し後だった。

野口健は、非常に愛国者なのだ。通常、環境保護論者には、環境をダシに、胡散臭い仕事をしている連中が多い、というか殆ど。だが、野口健は、彼らとは異質だった。

野口健の本に、こういう一節がある。

「僕の愛国心に火がついた。混血であろうと、いや混血であるがゆえに、僕は人一倍日本への愛国心が強い。愛国心などと言うと右翼じゃないかと思う人もいるだろうが、自分の国を愛してどこが悪いのか。自分の国に誇りを持てないことほど不幸なことはない。世界に胸を張れる日本にしたい」(『100万回のコンチクショー』まえがきより)。

野口健の熱い思いが伝わる著書が何冊か出ているので、興味がある方は、書店へどうぞ。

旧日本兵遺骨収集の支援訴え=登山家野口健さん-4年前、ヒマラヤで決意
9月6日14時10分配信 時事通信
 エベレストの清掃活動などで知られる登山家野口健さん(36)が、フィリピン各地に眠る旧日本軍の戦没者の遺骨収集に取り組んでいる。理事を務める特定非営利活動法人「空援隊」は、8月だけで1555人分、これまでに計約4800人分の遺骨を帰国させた。野口さんは「日本人全体の問題。遺骨が依然残されていることをみんなに伝えたい」と話している。
 「戦争を知らない世代」の野口さんが、遺骨収集を始めるきっかけとなったのは2005年のヒマラヤ登山。悪天候でテントに閉じ込められ、死を感じた時、「自分は好きで来た山でも死にたくない。戦争で行かされた先で亡くなるのはどれだけ無念だったか」と思い、生還したら取り組もうと決意したという。
 厚生労働省によると、海外で戦死した日本兵のうち、半数近い115万人の遺骨はいまだ発見されていない。フィリピンには、この約3分の1に当たる40万人弱の遺骨があるとみられている。
 関係者の高齢化などで遺族会や戦友会の収集活動は年数十体程度にとどまっているが、空援隊はフィリピンに事務所を開設、現地スタッフが地元住民から集めた情報を基に捜索し、実績を重ねている。さらに2万体以上回収できる見通しはあるというが、課題は予算。国の委託金や寄付金だけでは、せっかく収集しても日本に運ぶめどが立たないという。
 「ムーブメントを起こし、支援を増やしたい」と野口さん。「富士山やエベレストの清掃も当初は冷ややかな反応しかなかったが、次第に支持され、大きな流れになった。今回もきっと理解を得られるはず」と期待している。
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