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野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

アルピニスト・野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか 遺骨収集シンポ詳報(2)
2009.9.20 13:00
「遺骨収集を考えるシンポジウム」の主なやりとりは次の通り。

祖父ちゃんに聞いた遺骨の話(野口)
 野口健 僕の祖父ちゃんは元軍人でした。ビルマ(現ミャンマーの戦いに参謀として参加したが、部隊はほぼ全滅。そのとき戦死した部下のほとんど(の遺骨)がまだビルマに残っているんだ、と聞かされていたのです。祖父ちゃん宅へ泊まりにいくと、ふとんの中で耳元で「健、あのな、ビルマではな」と囁かれる(笑い)。それが耳に焼き付いています。僕がヒマラヤで死にかけたとき、こんなことを想いました。日本兵が亡くなったときも、最期は「母ちゃんに会いたいな」とか、「子供に会いたいな」と思ったのではないか、とね。

 堀江正夫 東部ニューギニア戦線の生き残りです。日本の2倍もある大きな島で、その東半分が、東部ニューギニア。満3年間も戦い続けた部隊です。この地区に投入されたのが、陸、海軍合わせて15万人。このうち内地の土を踏んだのが約1万人。途中で部隊が転用されたり、帰ってきたのが約1万人。3年間の間に、それ以外の13万人の尊い命がニューギニアの土になったのです。
 われわれにとって一番、心残りだったのは、「同志をそのままにして帰るわけにはいかない」ということでした。昭和19年4月に、連合軍が上陸して日本軍は孤立。その後から豪州軍の攻撃を受けました。そのとき、全部隊に期せずして「遥か故郷を思わざる」という歌が伝わってきたのです。こうして13万人が祖国を、故郷を思いながら、亡くなりました。
 戦後、東部ニューギニアの遺骨収集が本格的に始まったのは、昭和44年からです。私は2回目の48年から参加しました。生き残った戦友が40人、学生の諸君が10人、そのほか計70人で1か月半の間、遺骨収集をしました。
 ニューギニアは酸性土壌ですから、すでに土になった遺骨もある。せっかく見つけても大腿骨しかなかったというケースもありました。みんなで丁寧に掘り出し、頭蓋骨を丁寧に手の上に載せるとつぶれてしまうことも。水はけがいいところはまだ骨が残っています。標高4000メートルを超える高地では、骨がしっかりしていました。頭に毛が残っているものさえあったのです。
 こうして13万人のうち、これまでにお迎えできたのが、約5万人。まだまだたくさんの遺骨が残されているのです。私は94(歳)ですが、何とか命があるあいだに、1体でもたくさんのご英霊を日本に迎えたいと思っています。

日本人は何をやってきたのか?(笹)
 笹幸恵 小さい頃から戦争に関心を持ち、いつか戦地を訪れてみたいと思っていました。旅費と生活費を稼ぎなら、ようやく行けるようになったのが30歳のときです。現在は34歳で、両親も戦後生まれ。だからこそ、「あの戦争で何があったのかを知りたい」と思っていました。本を読んでもよく分からない。「飢えで死ぬ」とはどういうことなんだろう、と。
 ソロモン諸島ガダルカナル島を訪れ、戦友会の方と各地をまわりました。「かつてこの地で戦った祖父の世代を弔いたい」という思いでした。ところが行ってみると、慰霊碑の脇に、遺骨が散らばっている。本当にびっくりしました。
 パプアニューギニアのブーゲンビル島のゴヒ村では焼骨式が行われました。井げたに組んだ薪の上に頭蓋骨が乗っていました。歯だけは真っ白く残っていたのです。こんな現実を私は知らなかった。「ただ手を合わせればいい」というのは傲慢な考え方だと気付きました。戦後60数年経って今なお遺骨が出てくる現実。日本人は「いったい何をやっていたのだろう」と思いました。私が生まれるまでの30年、生まれてからの30年…。戦後の繁栄を享受している1人として、とても腹が立ちました。
 ただ、私のような一般人は遺骨収集は出来ません。(当時は)国の事業でしか認められなかったからです。「何とかして日本に戻せないか」と悶々としたことを思い出します。
 ガダルカナル島のふもとで、国の収集団が帰った後、庭みたいなジャングルで5体分の遺骨を見つけました。遺骨の重さはイスくらい、持って歩けるくらいの重さです。物としては軽くない。けれども人間の命があったと考えればあまりにも軽い。そのやるせなさ、戦争の不条理、残された人が「声を上げることもかなわずここに眠っていたのか」と思うといたたまれない気持ちになりました。

 赤木衛 JYMA日本青年遺骨収集団は、昭和42年、花園大学、駒沢大学など、仏教系の大学の有志が「戦没者を慰霊しよう」と集って出来た団体です。現在は、学生有志が毎年、国の収集団に40人~60人参加していろいろな場所へ遺骨収集に行っています。今どきの若者たちは、おかしな格好をしている子もいるが、心根は昔と変わりません。先輩からいろいろなことを教わり、一生懸命やっている学生が多いのです。
 私が最初に参加したのはサイパンでした。そのときジャングルの洞窟から赤いランドセルが出てきたのを見たのです。サイパンでは民間人も巻き込んで激しい戦闘がありました。洞穴にランドセルを背負って逃げてきた小学生のことを考えました。そばには、細いボールペンくらいの上腕骨、櫛(くし)と簪(かんざし)も見つかりました。ちょうど僕の母親世代でしょうね。そういう人たちが被害を被った戦争だと思いました。
 そのときの体験は強烈でした。まるで脳天を貫かれるような思い。死生観がひっくり返された気がします。
 硫黄島の洞穴では、まるで時間が止まったようでした。横須賀-霞ケ関という定期券が出てきたり、「いまひとがんばりしよう」と書いてあるノートもありました。
 いろいろなところを回りました。日本人の先輩たちは「われわれが太刀打ちできないようなすごい精神力で戦われたのだな」ということがよく分かりました。全長18キロメートルのも及ぶ地下壕を作ったり、ニューギニアでは1000メートル級の山の上までトラックを分解して担ぎ上げていたり…。この日本人の精神力には太刀打ちできません。完膚無きまでに打ちのめされた気持ちになりました。
 遺骨をジャングルの中で見つけ、マニラ麻の袋を担いで、山を上がり降りしました。当時は、1回、山には入ると50や100の遺骨が見つかりました。その重さが背中にギシギシと訴えてくるのです。「まだ友達がそこにいるんだ」とね。
 これまで、がんばってこられた先輩たちに代わって今度はわれわれが「前衛」を担っていけない時期だと思います。ここに来ているメンバーがまさにそういうメンバーでしょう。

米軍はすべて持ち帰った(倉田)
 倉田宇山 3日前に野口と一緒にフィリピンから1555体の遺骨と一緒に帰ってきました。その1555体はいったいどこへ行くんでしょうかね。いまは厚生労働省の安置室と呼ばれる倉庫に置かれています。来年5月の最終月曜日に千鳥ヶ淵の戦没者御苑の穴蔵に、もう一回焼いて、かさを減らして、缶詰にして入れられるんですよ。ここは靖国神社ですから遺骨はありません。これ、どこへ行くんですかね。
 遺骨収集に関わったのは2005年8月からです。それまでフィリピンに足を踏み入れた事もなかったのに、いまでは私のパスポートはフィリピンのスタンプがぽこぽこ押されている。これまでに32回、今年に入って7回です。
 われわれが探すまで、フィリピンで見つかるのは年間数十体だった。これで国家事業と言えますか。フィリピンで亡くなった方、そのひとり、ひとりに人生があった。私は、どのような人生であったかは知りません。でも、こうした現実があることを4年前に行くまで知らなかったのか。不明を恥じます。
 私は本来、笹さんと同業のジャーナリストです。最初は「遺骨が山のようにある」と聞いても信じませんでした。
 最初に行ったのはセブ島。フィリピン一のリゾート・アイランドです。そのセブ島の空港に着いて1時間半、車を降りて歩いて15分。一つの穴を掘っていた。スコップを入れるたびに出てくる。最初はなにか分からなかった。だって日本人の大半は「焼かれていない骨」を目にすることはないでしょう。
 よく分からなかったから聞きました。「これ人の骨ですか?」。「日本人の骨ですか?」。笑われました。「フィリピン人の多くはクリスチャンです。クリスチャンはどんなに貧しくても、人が死んだらお墓に入れるんです」。
 そして、「米軍は死んだ兵隊さんをみんな持って帰りましたよ」と。「あんたもメディアの人でしょ。日本ではこんなに大量の遺骨が出てきたら、ニュースにならないんですか」。私は答える言葉がなかったです。その怒りが私の遺骨収集の原点です。それからあとは日本人の骨であるという証言を撮影してまわり、厚生労働省にお願いしました。
 お役人はどう言ったか。「ああすごいですねえ。こんなことは信じられません」。その挙げ句に、彼らは「こんな遺骨の映像をいっぱい撮ってくるのはやめてくださいね」、「なぜですか」、「遺骨にも尊厳がありますから」と。
 私は怒りのあまり、「舐めとんのかお前ら、こら」と怒鳴りつけていました。その後、厚生労働省からは「出入り禁止」となりましたが…。
タグ:遺骨収集
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