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紅いカンボウチョウカン(2) [「シリーズ」日本人よ、何処へ行く]

【仙谷由人研究】(1)下
「ピンク色の官房長官」 仙谷氏の“原点”は
産経新聞 2010/12/04 00:55 更新
 ■転向しちゃった
 菅政権を口八丁手八丁の政治手腕で支え、同時にそのアキレス腱ともなった官房長官の仙谷由人の「原点」はどこにあるのか。
 仙谷と東大のドイツ語の授業で机を並べた旧友であり、現在は内閣官房参与として外交ブレーンを務める松本健一は昭和50年代半ばのある夜、仙谷との会食中にこう打ち明けられた。
 「おれ、転向しちゃったよ」。
 どういう意味かと松本が尋ねると、仙谷は「われわれの時代は(主流の作家は)大江健三郎だっただろう。司馬遼太郎に転向しちゃった」と答えた。
 松本によると、仙谷は30代半ばのこのころから、大学時代に愛読していた反国家的色彩のある大江だけでなく、日本社会の発展を肯定する保守主義的な司馬も認めるようになった。
 仙谷は全共闘(全学共闘会議)時代、「フロント」と呼ばれるセクトに足を突っ込んでいた。
 当時、全共闘運動は「日本社会主義青年同盟(社青同)」「革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)」-などのセクトが主流。フロントは「弱小で軟弱だった」(松本)とされる。
 仙谷は、ベトナム反戦デモには加わったが角材は握らず、1年留年した43年、5年生で司法試験に合格した。フロントは44年の東大・安田講堂攻防戦では講堂立てこもりには参加できず、司法修習生だった仙谷は食料の手配や下着の差し入れ、逮捕された学生の法廷闘争などを手伝った。
 「全共闘の救援対策を担ったことは隠しも何もしない。若かった時代の考え方に、思い至らなかったこともあるが、誇りを持ち、その後の人生を生きてきた」。
 仙谷は11月22日の参院予算委員会で、こう胸を張った。自衛隊を「暴力装置」と呼んだ思想背景について問われた場面でのことだ。
 「人間の頭は、20代ででき上がっちゃっている。それ以上は発達しない」。
 松本は仙谷の柔軟性を指摘しつつもこう語った。

 ■豹変できない
 「資本主義と社会主義のどちらを選択するか。この問題は、ベルリンの壁の崩壊で一気に勝負がついた」。
 仙谷は7月の日本外国特派員協会での講演でこう振り返った。仙谷は壁崩壊の翌年、平成2年の衆院選で社会党から初当選する。講演ではこう続けた。
 「そのときに考えたのは、絶対主義から相対主義というか、『主義者』にはならないことだ」。
 「政治をやる以上は多数派形成をやる。『孤立を恐れて連帯を求める』というふうに変えないと政治家として意味がないだろう」。
 社会主義の敗北を認め、「主義」と決別したのであれば、なぜ社会主義を標榜する政党からの出馬なのか。昭和50年代、自民党衆院議員の秘書をしていた中学時代の同級生が「自民党福田派から出ないか」と誘ったところ、仙谷はこう断ったという。
 「いきなり百八十度は豹変できないよ」。
 仙谷は昨年夏の衆院選で民主党が政権を奪取した直後、それまで自分に長年仕えてきた政策秘書を他議員の秘書に転籍させた。その理由について、周囲にこう明言している。
 「彼は左翼だ。左翼の発想では政権運営、権力の維持はできない」。
 だが、左翼的発想の限界に気付いていたはずの仙谷氏の実際はどうか。韓国に対する新たな戦後個人補償発言や日韓併合100年の首相談話、領土問題での相手国への過剰な配慮と自衛隊や海上保安庁への冷淡さなどで、雑誌では「赤い官房長官」と揶揄され、政権運営は行き詰まっている。
 60年安保闘争を評論家の西部邁らとともに指導した元全学連幹部で、仙谷と親交のある東大名誉教授、坂野潤治はこう喝破した。
 「仙谷はピンク色の道を選んだ。大衆闘争をやってもその先がないことは分かっていた。それで西部らは右に行ってしまったが、仙谷は『男たるもの踏みとどまりたい』とピンク色を探したのだろう」。
 個人の思想・信条、生き方であればそれもいい。だが、国難の時代に、中途半端な「総括」しかできなかった「ピンク色の官房長官」が果たしてふさわしいのだろうか。(敬称略)
タグ:政治
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