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本当に平和を祈念しているのか [政治や歴史の話]

以前から違和感があったこと。
8月になると、中国地方の××県と九州地方の××県で、「原爆の日」にちなんだ平和祈念式典なるものが、開催される。小生は、この式典ほど、本質とは違ったことをやっている式典はないと毎年思っている。

今日、インターネットを見ていて、素晴らしい文章があった。
「原爆の日なのだから、心静かに、ただ黙祷し、慰霊すれば良い」。
小生も、そう思う。
確かに、日本も愚かな戦争をしたと言える。アメリカも、原爆を投下するという愚かなことをしたと言える。
しかしながら、過去の日本やアメリカをあげつらうのではなく、ただあの2発の原爆で亡くなった多くの方々の為に、静かに頭を下げる。これが、この式典の本当の目的ではなかったのか。

では、今の式典はどうか。
出てくるのは、「集団的自衛権は、戦争への道」だとか、「武力で平和は守れない」とか、原爆とはあまり関係のない話ばかり。原爆を隠れ蓑に、日本の防衛力低下へといざなう発言が目につくのだ。
原爆を批判するなら、まず、日本に向けて核ミサイルの照準を合わせている某国への懸念は、何故発言しないのか。
又、日本の集団的自衛権の論議は、主に日本の領海を侵略している某国へのリアクションとしての意味合いは強いと小生は考えているが、安倍氏を叩く前に、まずその日本の領海を侵略している某国への懸念は、何故発言しないのか。

結局は、こういう発言をする手合は、原爆のことは二の次で、本音は、「日本の防衛力を低下させよう」、「例え、日本が某国から軍事的圧力を受けても、平和憲法の下に、ただ只管、忍従を強いるように仕向けよう」といった考えなのではないか。

フランスの哲学者、パスカルは、こう喝破している。
「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
なぜならば、常に悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。
それゆえ正義と力を結合せねばならない」。
然り。

現実的に考えて、全くの武力なしに、一国が安定を保つのは、不可能である。
大金を泥棒に盗まれたくないから、人は、金庫に鍵をかける。金庫に、「泥棒よ、来ないでくれ」と張り紙をしていても、鍵のついていない金庫は盗み邦題である。
やっぱりセキュリティに不安があるから、人は、警備員を雇い、会社を閉める時は、鍵をかける。
他国を侵略する意図はなくても、侵略されたくないから、国家は、軍事力を準備している。「僕等は、平和を愛しているから、侵略しないでね」と言っても、侵略してくる集団には、力がないと対抗できない。
こういうアタリマエのことが分からないのか。

平和、武力では作れない 長崎原爆の日「平和への誓い」
朝日新聞デジタル 8月9日(土)13時48分配信
 武力による抑止で、核の傘で、本当の平和がつくれるのか。69年前、原子野で誓った不戦の原点から、遠ざかっていないだろうか。惨禍を目のあたりにしたこの日、被爆者たちは足元の平和を見つめている。
■集団的自衛権、行使容認は「暴挙」
 「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」。
 平和祈念式典で、被爆者代表として城臺美彌子さん(75)=長崎市=が「平和への誓い」を読み上げた。
 「今年の『誓い』は特別なものにしなければ」。そんな思いから、集団的自衛権の行使容認に触れた。
タグ:政治
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