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朝日新聞と高橋大輔 [政治や歴史の話]

朝日新聞は全く懲りていないらしい。
反省する気がない。やはり、不買運動をして追い込むしか手が無いだろう。

10月15日付けの社説もひどいものだった。

「朝日新聞への批判から逃げようというのではない。ただ、慰安婦報道に携わった元記者の勤め先の大学が脅迫される程に過熱しては、多様な価値観が共存できる筈の社会の基盤が脅かされる」の部分に、朝日新聞の正体が滲み出ている。

いつも朝日新聞が言う所の「日本人は過去の過ちに対する反省が足りない」というセリフは、朝日新聞自身には向けられていないことが分かる。
朝日新聞が言いたいのは、「ただ、」以降の文章であり、「朝日新聞への批判から逃げようというのではない」というのは、単なる枕詞である。
意見の多様性の排除ではない。意図的に捏造したものなど、意見に値しない。違うかい。

先日、日本人に、「夢と希望」を与えたスケートの高橋大輔選手が、現役引退を発表した。
翻って、朝日新聞が日本人に与えたものは何だろうと考えてみた。
多分、「膿と絶望」。この程度だろう。

2014年10月15日(水)付社説
新聞と言論―社会を単色にはしない
 新聞に求められる言論機関としての役割は何だろう。新聞週間を機に考えてみたい。
 朝日新聞の場合は、オピニオン面が主に言論のフォーラム機能を担っている。読者からの声、識者からの寄稿やインタビュー、そして社説が載る。
 社説の内容は、20人あまりの論説委員によって積み重ねられてきた毎日の議論にもとづいている。その主張については最終的に論説主幹が責任を負う。
 委員の間で意見が割れ、激論になることもある。ただ、異論も踏まえているからこそ、論説主幹個人のものではない社の主張として成り立っている。
 読者や識者の考えは、必ずしも社説とは一致しない。池上彰さんのコラム掲載見合わせは悔やみ切れない過ちだが、オピニオン面や紙面全体を通じて、社説にとらわれない多様な視点を提供しようと努めている。
 このところ、各新聞社の間で社説の主張が大きく二分されることが目立つ。
 例えば、集団的自衛権の行使を認める7月の閣議決定。朝日新聞は「この暴挙を超えて」と題する社説で、解釈改憲に踏み切った安倍政権を批判した。
 一方、読売新聞は「抑止力向上へ意義深い『容認』」との見出しで、自民・公明の与党合意に基づく決定を歓迎した。
 こうした違いがあることは、日本の言論空間が健全であることの表れだ。
 それでも、自戒を込めていえば、意見の対立が激しくなるほど「我々が正しいのだ」と筆に力が入る。記者が陥りがちな悪い癖かもしれない。行き過ぎればメディアが政治のプレーヤーになりかねない。そうなると、まるで政治闘争であるかのように筆はとがっていく。
 安倍首相の憲法への姿勢に対し、私たちは「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」と批判してきた。
 一方、立憲主義には「多様な価値観の共存を実現する」というもう一つの大きな意味があると憲法学は教える。
 朝日新聞への批判から逃げようというのではない。ただ、慰安婦報道に携わった元記者の勤め先の大学が脅迫される程に過熱しては、多様な価値観が共存できる筈の社会の基盤が脅かされる。
 新聞の役割は、意見の対立を煽ることではない。考える材料をいかに社会に提供できるかにある。そのことを改めて確かめておきたい。
 私達の社会が、一つの色に染められてしまうことに抗するためにも。
タグ:政治
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