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日本の新聞社の条件 [政治や歴史の話]

報道の中立性は、事実上存在しない。
以前書いたが、報道の中立性とは、以下の2つの点において、厳密には保たれない。
「多くのニュースから、どのニュースを選択して放送するかは、放送局の判断が入るから」。
「そのニュースをどのように放送するかについては、放送局の主観が絶対に入るから」。

例えば、昨日、日本や世界で、報道に値するニュースが、100件あったと仮定する。紙面には限りがあるから、その中で、何を紙面に掲載するかは、新聞社が選定する。何を掲載するかという時点で、新聞社の主観から免れられない。

小生は、良い新聞社とは、「厳しいこともたまには言う、逞しい友人であらねばならない」と思っている。
まず、日本の歴史や文化を尊び、しかしながら、日本の為には、厳しい警句も辞さず、さりとて、日本が、言われもなき非難に晒されている時には、断固として、日本の名誉を守る為に奔走する。
口調は丁寧な中にもユーモアを忘れず、日本や日本人を叱咤激励する。日本が、経済的に停滞気味の時には、新たなビジネスモデルを提示し、例えば、東京オリンピックが2020年に行なわれるが、そういう日本人の心意気を示すチャンスには、それこそ進軍ラッパのように日本人を鼓舞する。

これが、日本の新聞社の役目ではないのか。
日本の新聞社なのだから、日本を中心に考えるべき。どだい、中立など不可能なのだから。

大事なのは、「愛ある批判」であるということ。愛していないと駄目だ。
ある女性を好きになれば、多少の欠点は見えなくなる。
ただ、その女性に直して欲しい部分がある場合、男性のコメントが、愛がある発言と、愛なき発言では、女性の反応も違ってくる筈だ。
朝日新聞の社説をたまに見る限り、「この新聞は、日本に対する愛がないんだなあ」と感じてしまう。

そういう記事を見てしまうと、「朝日新聞とは、日本人スピリッツを無くしている人達の集まりだなあ」と思う。
「少しでも、日本を良くしようと考えていれば、こんな発言が出る訳がないのに」という記事が少なくない。
朝日新聞の解説に出てくる人々も、揃いも揃って、日本人を精神的に拘束しようとする意図が見え隠れする。まあ、朝日新聞が人選しているのだから、仕方がないのだが。
タグ:政治
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